天皇に絶対服従をする場合天皇陛下は間違いを犯さないか。
この点が問題となる。
バハイ教ではこれを不謬性と称して語られているところがある。
教祖に間違いがないのか。バハオラはないらしい。
利己主義は従うものの防衛本能であり、主に裏切られた下僕の反省から生まれたものといえなくもない。
リストラを経験すると、会社への忠誠心などなくなり、自分と自分の家族をより重視するようになる。
そう考えれば一概に利己主義を責めることもできない。
リーダーが間違っている時は諌めるべき、あるいはリーダーの意に反してでも自分が忠と思うところを貫くべきというところから、陸軍の中国での勝手な行動が始まった。
また、曲がりになりにも天皇陛下のもとで一丸となって戦争に突入した反省から、国民は天皇にからむ教義をすてさり、競って欧米の民主主義をありがたく、むさぼるようにして吸い尽くしていった。
先の天皇機関説の問題だけでなく、陛下が積極的に親政されなかったこと、立憲君主の立場を貫かれたことに対しては、家臣からも不満が記録されている。
また総理として東條英機を推挙したのは内大臣木戸であったが、それを肯定したのは天皇陛下である。石原莞爾については2.26事件が起こった際どんな人物か理解していないようなところもあった。
昭和天皇は明治のころのような人物が自分の周りにいないことを嘆かれていたが、あの時代に出口王仁三郎たちがいた。皇后は大本を知っていたという。にもかかわらず大本の大弾圧を黙認されていた。つまり、人物は在野にいたが、天皇の側近にいなかぅたというだけなのではないだろうか。
陛下が出口王仁三郎を知って居たという記録はない。しかし当時出口王仁三郎は社会現象であり、皇后がご存知であったとすれば耳に入らぬはずはない。
陛下をおまもりしようとして皆神山に秘密の宮殿が作られていた。この案は出口王仁三郎から出たという説もある。
しかし、陛下はここに移るのを嫌がった。
陛下と出口王仁三郎には考え方に差があったように思われる。陛下は一宗教家である出口王仁三郎に対してどうこうすることもいうこともできなかったのかもしれない。
歴史上、天皇が神に従わなかったために亡くなった記録がある。神功皇后の夫で仲哀天皇である。
この天皇の時にはいまだ神がかりの術があり、皇后に神がかかって
西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託があった。
しかし、仲哀天皇は、これを信じなかったため翌年急に崩じてしまったという。
つまり天皇が100%正しいとはいえないということになる。
今日の常識からいえば、隣の国を神があげるといって、信じられないのはふつうであろう。
神がかりで隣の国を奪い取るなどとんでもない話ということになる。
しかしながら、かつてアジアが日本であるという太古史が事実であり、神の存在が事実であれば、筋はとおる。
国境なき時代アジア全体を太陽の一族が神の命令で支配していたという説を信じる者にとっては
新羅は侵入者であり、当時日本国内の部族と通じて国を奪おうとしていたのである。
攻める理由はあった。
また神道を祭る皇室の者が仏教に傾くことは多かった。天皇は迷われ、仏教の導入拒否をためらったところから蘇我氏の専横、支配が広がり、朝廷は混乱した。天皇が断固として神道を守ろうとすれば、皇室が一丸となって神道を支えれば、物部氏が負けることなどなかった。
出口王仁三郎は皇道説をとり、天皇機関説に反対し君主立憲を主張した。ところが周辺資料によれば天皇陛下ご自身はこの議論を嫌われ、天皇陛下は開戦時も戦中も立憲君主たることを貫き通された。天皇陛下ご自身が天皇機関説に傾き、憲法内での天皇のお立場を守られた。
秩父宮様はこれに対して非常時にあっては天皇親政を主張されたが、昭和天皇はこれをとられなかったらしいという、話もある。
出口王仁三郎はわかりやすく、天皇陛下の独裁でいいと言い残している。
現代の視点から見れば出口王仁三郎は狂気である。天皇陛下の意見が常識である。陛下は明治天皇を尊重し、英国に倣って立憲君主を固持したのである。
また陛下の見識ではここで反対すれば内乱が起き、結局は大戦が起きるであろうというよみであった。
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