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国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

皇国の道

2012年05月27日 | 皇道
皇国の道(一)
 天神地祇を崇敬するは、皇国建始以来の国風にして、上は天津日嗣天皇より下庶民に至るまで、之を苟且に附したる事なく.国家安穏にして淳厚の俗を為し、天下は実に平安であつた。故に上下の国民の行動たるや、凡てを神祇に依托し、亳も私心を交ヘず、百般のこと皆神意を奉じて処理し決行したものであつた。
 神武天皇の長髄彦以下の諸賊を征服し給ひし時にも、先づ天神地祇を礼祭し、その神意に従つて行動し給うた。又崇神天皇の天業を経綸遊ばし、景行天皇の筑紫の土蜘蛛を征討し、神功皇后の三韓を言向け給ひしも、ことごとく神意を奉じて行ひ給うた。
 天孫降臨以後、崇神天皇の御代までは、神と皇との際遠からす、常に同殿同床にまし/\けるが、天皇は天下の形勢を洞察し給ひし結果、和光同塵の神策を採り給ひ、天照大神及び草薙の劒を大和の笠縫邑に遷して斎き祀らしめ、外国の文物を輸入して大いに国家の経綸を行ひ給ひ、垂仁天皇の御代更に伊勢の国宇治の五十鈴の川上に宮柱太敷立てゝ大神を斎き祀らしめ給うた。
 次いで応神天皇の御代に至り、孔孟の教儒教なるもの初めて渡来したるによりて、淳朴の良風は次第に移りて、浮華の俗に浸潤し、国民思想上に稍変化を来たすことになつた。けれども、大和魂の本元は微動だもなく、忠孝仁義の大道は昭々乎として日月と共に光りを放ちつゝあつた。それより欽明天皇の御宇に至り、仏教始めて渡来し、その説くところ前の儒教に比して大いに趣を異にし、因果応報の説をもつて我が国民の精神に驚異を与へたのである。

開闢のはじめの神祇を崇敬し神意のままに動きたる国
何事も神のまにまに働きて国開きたる大和神国
惟神神の教をよそにして我が日の本は治まらざるなり
御代御代の天皇は大神をいつきまつりて世を治めましき
応神天皇の御代より儒教渡り来て国民思想動き初めたり
孔孟の教をうまく咀嚼して政治のたすけと為せし我が国
欽明天皇の御代に到りて仏の教渡来せしより風俗変はれり
淳朴の美風はことごと地をはらひ浮華軽佻の俗に変ぜり
天地の神の恵みに地の上の国のことごと生れしを知らす
釈迦孔子ヤソの教の渡り来て誠の道を失ひにけり剛
切萬事行き詰りたる世を生かす道は神祇を祀るにありけり

 仏教の渡来に就いては、国人の未だ曾て耳にせざりしところなるを以て、その奇異にして仏像の華美なるに眩惑され、これを信奉するもの多く、物部の守屋と蘇我氏の正面衝突となり、途には崇仏派勝を制し、殊に当時上下の尊敬最も厚かりし厩戸皇太子の如きも、ひたすらに仏教を政策上より尊信採用されたるにより、仏を尊奉するものます/\多くなつたのである。
 然しながら舒明天皇の御代に至りて、唐の使節に御酒を賜ひて神の威徳を示したまひ、次いで孝徳天皇の御代には、先づ神紙を鎮祭して後に政事を議し、もつて内外国人をして神祇の当に崇敬すべきを知らしめ給ひしごときは、何れも敬神を以て主とせられたる証拠である。次ぎに文武天皇の御代には、律令を撰定し給ふや、大いに唐制を模倣されたりといへども、獪神祇官をもつて百官の上に置かせ給うた次第である。
 斯くして歳月を経るにしたがひ、仏教を信奉するもの多くなりしが、神紙を崇敬することは建国以来の風習にして牢として抜くべくもあらず、彼等仏教者の布教は意の如くならざるを憂ひ、茲に神仏の調和を計画するものさへ出で来り、元正天皇の御代には、既に気比の大神のために神宮寺を造りしものさへあつた。それより空海、最澄の僧輩出でゝ本地垂迹の説世に普伝さるるに至り、神社の祈祷にも僧侶をして読経せしめたり、神職の外に別に又社僧なるものを置いて奉仕せしめ、遂には仏神の文字を国史上に見るに至り、冠履顛倒を来たすことになってしまったのは、我が皇道の上から見て遺憾至極である。

仏教の渡来は我が国上下の人の心を迷はせにけり
仏教の奇異なゐ説や金ピカの仏に国民酔はされにけり
やうやくに仏を信する人ふえて物部蘇我氏の衝突となれり
物部の守屋は神の道奉じ蘇我氏は仏に盲従なしたり
神仏の正面衝突勃発し物部蘇我はにらみ合ひけり
仏教派の勝利となりて惟神神のをしへはおとろへにけり
さりながら大和魂なほうせず仏をこばむ者も多かり
仏教の宣伝容易ならざるをさとりて神仏調和をこころむ
僧の空海最澄等により神仏の混淆まつり始まりにけり
仏教は日本の祖先崇拝の教をのこらす我がものとせり
空海は本地垂迹説を唱ヘ神を仏の権現といふ
神社には神職の外に社僧ありて祈祷に経読み珠数をつまぐる
仏教の渡来せしより益良夫の睾丸のこらす割去されたり
勇壮なる大和男子も仏のため骨なし蛸となり終りたり
因果応報等の愚説を唱へつゝ淳朴の民の心乱せり
三千年の昔の風俗にねじ直す道は神紙を敬ふにあり
動きやすき国民なれどしんそこの大和心はうつらざりけり
  日の本を仏教国に化せんとし世世僧侶の計画とげずも

(昭和八、九号神の国)


皇国の道(二)
 玉鉾の道は多しと雖も、萬古に亘り干載を経て変易磨滅すべからざるものは実に斯道なり。畏くも我が 皇祖天神は斯道を以て国を肇め徳を樹つるの基礎となし給ひ、之を天孫列聖に授け賜ヘり。されば、彼の延喜格の序にも『我朝家道出二混沌一』と記せるが如く、其の源泉は遠く萬世一系の天津日継と共に、同じく高天原より此葦原の中津国に傅はり、久遠の間未だ嘗て一日も地に墜ちたることなく、天日と共に弥益々に其光輝を角しつゝあるなり。
 此の如く斯道は天授の真理にして、至粋至美至真至善至正の極たり。故に鬼神も之に依りて立ち、人民も亦之に依りて活き、萬物も亦よりて安息するを得るなり。畏くも、 明治天皇の下し給ひし教育勅語に『斯ノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ、朕爾臣民ト共ニ、眷々服膺シテ、咸其徳ヲ一ニセム事ヲ庶幾フ』と詔らせ給ひしも、実に斯道が字宙の真理、天地の大道なるを表白せさせ給ひしものと仰ぎ奉らるゝなり。
 此を以て、彼の儒仏道若くは天主囘々耶蘇等の如き、大疵小醇真偽相半するが如き薄弱なる教理とは、実に霄壌の差と云はざるを得ず。見よ、至聖と称せらるゝキリストの本国獪太の滅亡して露の苛政の下に呻吟せるを、大聖と仰がるゝ釈迦の本国印度の仏教の感化によりて滅亡し、独立の体面を失ひて英の配下に涙を呑みつゝあるを、先聖と称せらるゝ孔子の生国支那の未開半亡国同様にして、国勢の振はざるを。そもこれらは皆何に因由する乎。則ち其の教理に欠点ありて、天理人道に適合せず、説く所根元なく、薄弱信を措くに足らず、以て治国平天下の道に稗益する所なき而巳か、却つて害毒を流布したる結果にあらずして何ぞ、然らば斯る教理を以て、治国の本、修身の要と思ひ、心酔せる外教崇拝者こそ、実に国家のために獅子心中の虫と日はざるを得ざるなれ。此に於てか、此の虫を退治し、以て国家のために臣民たる義務の萬分の一を尽さむの真情より、益々斯道研究の要務なるを感じ、茲に学生の身なるをも顧みず敢へて一言を贅して余白をけがしゝにこそ。

(明治四〇、七、二七、 このみち第三五号)

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