国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

道院 修道について

2013年04月28日 | Weblog

道というのは天地の間において、人々が公有(共有)する所のものであり、決してある特定の人だけが私有独占すべきものではないのである。道は人においては、貴賎、貧富、智愚の差別がなく、生まれると同時にあって、片時も離れることがでいないところの、すなわち心である。
人には皆心というものがあって、心がすなわち道であり、もし心を能く修めることができれば、それがとりもなさず道を修めることなのである。いわゆる道を修めるとは実は心を修めることなのである。このように説いてくると、心を修めることがすなわち道を修めることであって、別に何も深遠で奥深く不可思議なものではなく、又別に難しいことではないのである。それは時間を消費する必要もなく、
又場所も必要としないので、ましてや、深山幽谷に師匠や道友を訪ね求める必要もさらさらなく、何時でも、何処でも、何事においても、ただ自分から決心をして修めさえすれば、自然にだんだんと道に合するようになるのである。
 この心とは及ち良心であり、又道心でもある。もし何事でも良心にそむくことがなければ、即ち道に合するのである。もし何事においても道に合致すれば、修める必要はないのであり、社会はこのように悪くならず、世界も又このように乱れることはなかったのではないだろうか。
 今日における人心の悪化は言語を以って形容することではない、それを放任して社会の安定と世界の平和を願っても、それは不可能であるばかりではなく、逆に進めば進む程、安定や平和から遠ざかってゆくのである。
 そこに必ず道を修めなければならないゆえんの重要な鍵は、すべてがこの人心にある。古人には心を治めるところの学問があり、それが世間の道徳を維持するところの不二の法門であったと言うことができる。
 いまの人は道徳を破壊し、廉恥の心を失い、ただ私あるを知って、公があることを知らないのである。それは皆心を修めることを忘れているのであって、私恣のために幾重にも包囲されて、益々堕落の一途をたどっていくのである。万法(有形無形にわたる客観的存在)は皆心によって造り出され、万善(多くの善)は皆心によって生じ、万悪(多くの悪)は皆心によって造られる。したがって、聖賢と盗跖(大盗賊)の違い、肖と不肖の別れは、すべてが心を修めると修めないとにかかっているのである。
 心を修めることは、別に何も難しいことではないが、今日の人類虚構に溺れて、財貨、利益、名誉、地位などのために心を奪われ、自分自身のことばかりを考え、人のことなど眼中にないのである。そこで、にわかに心を修めるとは言っても、一体どこから手を着けたらよいのかわからない状態である。
 この修めるという字はすなわち日常の人として守るべき道や、人に応待し物に接する間に在って、片時も離れることはできないので、決して高尚な理論をもてあそんで、身近な事実を顧みないとうことではない。


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