昔からの型、制度というのは言語に残っている。
大臣の臣。これは家臣の臣で、君主の手下である。
日本ではおおおみ 大臣 総理であっても大臣であり、大統領ではない。
知事に相当する役職を おおみ 小臣
と呼んでいた。
そしてタミだが、これは手身にあてられるように、国を身体全体にたとえるなら、手と身に相当する。
これを民という漢字を使うと、この漢字には目をつぶして逃げられなくする奴隷の意味が含まれているのではなはだ好ましくない。
憲法を漢字で構成するかカタカナで構成するかは議論にすらならないかもしれないが、格調の高いやまとことばをふんだんに入れて、カタカナにすべきで、そうすることで、国の発展とともに解釈を変えてゆける。
解釈が変わるのはよくないように考える向きもあるが、条文憲法はできた瞬間から時代のずれを起こし始めている。
この時間の変化に対応できる憲法を作る為には、ヤマト言葉で、時代の偏移に応じて解釈可能な運用な憲法をつくるのが理想である。
シロシメスという言葉も統治を現すとされている。自分たちがタミであり、キミが存在することをシロシメスことで変化が起きる。
「キミ」とは何か。極身とも当て字される。
人として存在するが、尊い地位につかれた存在で、その存在は国民の総意と天意に基づく。
天意と国民の総意を真釣り合わせるのが統べる君すなわちスメラギ=天皇の地位である。
それは今日的に言えば古い神道、日本の文化に根差している。
今日的な学問は神を否定している。だから古い文化を理解することがまったくできず、異常心理や迷信で片づけてしまおうとする。
日本の政治、国の形はこの神の存在なくしてはあり得ない。それは戦後もなくなってはいない。
政治と宗教を統一する唯一の希望が日本となってきた。
天皇の存在は国民の総意というが、国民すべてが望んでいるわけではないから総意とは言えない。
天皇の地位と存在は天意による。歴史により裏打ちされている。それをどう表現するかが見ものである。
戦後はGHQの圧力で捻じ曲げられたものをどうするかということである。
九条だけを変えて、天皇の地位を変えなければ、アメリカの圧力による憲法の軍事化とみて間違いはない。
天皇条項に変化があれば、少しはもののわかった人間が手を加えているということができる。
天皇が元首であるという表現は日本の考え方である。
天皇が機関であるという表現は共産主義を君主主義に合わせた考え方である。北一輝、大川周明はいずれも左翼出身者で、天皇機関説であった。つまり左翼理論を利用して天皇政治を考えたのである。
天皇機関説を嫌ったのは、そのために天皇の権威が骨抜きにされてしまうということもある。
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