いいか、少しだけ話をしたい。
神…すなわち目には見えない存在からのメッセージがあるんだ。
ぜひ聞いてほしい。
悪いことは言わない。
この世界の大地と宇宙をモデルに生命の仕組みを作った。
それがこの世界の始まりなんだ。
その存在を私は天理王命と呼ぶ。
心が呼んでいる。
真実と私はひとつである。
宇宙論的解釈の「ちょとはなし」
ちょとはなしはもともと第一節であったもの。
これこそが端的な神からのメッセージ。
この世界そして宇宙はなぜ始まったのか。
この壮大なテーマは人間の煩悩を吹き飛ばすにあまりある壮大な物である。
この世界には始まりがある。
神は目的を持ってこの世界を始めたのであり、人間はその世界の中に生きている。
このは相当な衝撃をもって受け止められたと思われる。
江戸時代の日本人は電気もガスもない生活をしていた。
灯油と書いて”ともしあぶら”と呼び、植物油や魚類の油を燃料にした照明で生活していたらしい。
蒸気機関車の営業運転は明治五年にイギリスから輸入された10輌で始まった。
日本で初めてのガス灯が横浜の馬車町に灯ったのも同じ年だと言う。
この頃に説かれていたのが中山みきの教え。
あまりにも壮大で、
「むねのわかりたものはない」
となってしまうのも無理はないことであっただろう。
「ちょとはなし」
これが本来の第一節なのである。
明治二十年十二月八日の”おさしづ”も、ちょとはなしから始まっている。
あしきをはろうて、はない。
なぜか。
それは病気や生きていく上での困りごとを解決するのは真の目的ではなく、根本から救いたいというのが中山みきの真の考えだからである。
「あしきをはろうてたすけたまへ」
は手段、というか困った時の祈りであってそれが教えの本体ではない。
人間が神の創造物であり、この世の幸せを約束されたものであるならば人間の本質は善である。
あしき=ほこり
であって祈りの最初には相応しくない。
ちょとはなしにこそ、最初に持ってくるべきメッセージが込められている。
松村吉太郎講和集『道の先駆』P33には
「明治二十一年、教会本部を設置すると共に、朝夕のお勤めとしては、『あしきはらひたすけ給へ』二十一遍、『ちょいとはなし』一遍、『甘露臺』三遍ずつ九遍と云う事に決定せられたのであります。」
とある。
中山みきがこの世の身体を措いたのは明治二十年のことだから、要するに中山みきがこの形式を決めたのではないということである。
「公に認められたい。届を出したい。」
「ならん。」
これが中山みきと周囲で幾度となく繰り返された問答であり、中山みきとその神は教えをまっすぐに伝えることしか説かなかった。
公認、などとなればそれを得るために様々なことが起こる。
江戸時代において、こういった公認を得るということは、それまでにある宗派のいずれかの傘下に入ることであった。
ということは曼陀羅を置いたり、提灯をつったりする必要が出てくる。
部分的にであっても神道や密教の儀礼的な要素が入ってくることが影響を及ぼさないわけはない。
だから神は許可しなかった。
それが変化したのは明治二十年一月十三日のことである。
いわゆるおさしづで参照することができる。
自らの身体が役割を終えれば、この世界でのことを委ねなければならなくなる。
自身が望んでいなかった「教団」というものが興るのは避けられない状況は迫っていた。
長い問答のあと、ついに、
「何か願うところに委せ置く」
と許可に振れたのだった。
その十三日後、おやさま九十年の道はこの世から宇宙へと切り替わった。
『すわりづとめ』が今のかたちになったのはその一年後ということになる。