神は怒りはしない。
神は人間のようには考えないからである。
真実の神は急ぎも焦りもしない。
時間や空間を超越した存在であるからである。
ところが。
”おふでさき”には神の『ざんねん』『りっぷく』などが多数出てくる。
ここでは神は怒っている。
何度も何度も怒っている。
果たして神は怒るのであろうか。
創造主が神であるとして、その神が自らが創りだした人間に対して怒るとすればその神は無慈悲なのか無能であるか、果てまたその両方であるかどれかであることは間違いない。
真実の神とは完全な愛の存在であるから怒りはしない。
“おふでさき”での神とは人間中山みき様の心を映したものだったのだろう。
だからこれを真実の神からのメッセージと受け取ってはいけない。
中山みき様の直筆であることから一連のこの書き物は絶対視されてきた。
しかし直筆で書かれたものであるということと真実が書かれているかどうかということは同一ではない。
簡単な話である。
“おふでさき”は中山みき様の覚りへのプロセスの一部と捉えるのが理解しやすい。
みき様の精神世界とのアクセスの重要な記録であることには違いない。
カタチあるものはシンボルに過ぎない。
カタチあるものとは物質のこと。
相対性理論が明らかにするように物質はエネルギーと本質的には同一である。
エネルギーを語る教えは真実を語り切ってはいない。
何故なら真実の神は物質世界にはいないからである。
宇宙のはじまりは「どろうみこふき」では解き明かされてはいない。
真実の神とは、
「普遍の存在」であり、と言うことは「常に変わらないもの」であり「全てを包括するもの」である。
このような存在は物質の宇宙を越えている。
真実の神とは物質の宇宙を越えるものである。
『だめの教え』と称する教えに相応しいのはこの絶対の神についての教えである。
この真理を中山みき様は生涯の最終段階において覚ったと思われる。
それは度重なる警察への過酷な勾留において苦しんだ様子がないからである。
この世界の真実を本当に理解したものは自らの身体をそっと置くという。
そのような境地に達せられたように見える。
”見える”というのは残された証言から推測するしかないからである。
中山みき様はそっとその生涯を閉じられた。
そして教えは語りつがれた。
当時の教団の主流でないところ、また教団から追放された人たちの中に真実を理解した人はいた。
覚りへの道を歩んだ人は確かにいたのである。
それらの片鱗は消えてはいない。
だが真実を理解し実践する者は、今の「天理教」の中にはいない。
これが私たちの教団のありのままの姿なのだ。