かたちあるものは心が生み出したものである。
宇宙はわたしたちが望んだことによって生じ、輪廻に見えるようなものが始まったのである。
かたちあるものを顕すのは自我の創造性である。
この世界はわたしたちの心が生じさせている。
…生じさせているのだが、映像のように本質的には存在していない。
そのことはアインシュタインが証明した。
相対性理論。
「物質というのはエネルギーの異なった状態である」というこの世界の法則であり、現代科学の礎になっている。
つまりわたしたちが現実だと思う世界はエネルギーそのものと本質的には違わないのである。
だからこの世界は不完全で不確定なのである。
このエネルギーの世界を現実だと信じる以上、わたしたちは変化に翻弄され続けいつまでも安らぐことはできない。
宇宙の創造主は神ではない。
であるから最終的な救いがある。
神がこの世界を作ったのであるならば、神は愚かな存在であるか、決定的な能力が欠けていることになる。
そしてわたしたちに根源的な救いはもたらされないことになる。
なぜなら。
かたちあるものは朽ち行くもの。
この世界の生命に見えるものは滅び行くもの。
あたかも火事の家の中に住むようなものである。
そのように生み出すものが万能の存在であるはずがない。
神は宇宙の論理を越えるもの。
であるから宇宙のどこを探しても真実の神は見つからなかったのである。
だが神はある。
わたしたちは内なるインスピレーションを頼りにそれを確かめることができる。
わたしたちは神の創造性を受け継いでいる。
この世界に生み出されるものはわたしたちのインスピレーションを根源にしている。
科学的な成果や、壮麗な建造物や、人と人をつなぐ優しさや、アートや、こどもが砂場でつくる様々なものに至るまであらゆる人の営みの光輝あるものは神につながるインスピレーションが根源になっている。
神の存在はこの世界に象徴としてあらわれるものの中に見いだすことができる。
これは脳の働きによるものではない。
脳が心を生み出したわけではない。
その証拠に脳をどれだけ調べても意識がどうやって生じたか証明はできない。
これがこの宇宙の枠を出られない科学の限界である。
だがわたしたちの意識というのは確かにある。
意識が脳という道具を生み出し、用いているにすぎない。
つまりこの世界はわたしたちが生み出した。
そして自ら望んで今の環境に生まれて来たのである。
このような自覚に目覚めることは苦痛を伴うように見える。
しかしこの苦痛のようなものは真実ではない。
それはわたしたちがこの夢の中のような世界を現実だと信じ続けたいと思う心が生み出している。
抵抗が生じるのである。
自我の抵抗である。
わたしたちは自分で自分を救うことができる。
どのような人間も全て神につながっている。
救いの人生を選択できる。
この世界の真実を知ろうとする姿勢を自ら選ぶこと。
この選択に神の力が必ず作用する。
それが神による救いである。
この世界のありとあらゆる空間を探し、真実に気がつくために時間は存在する。
犠牲やあきらめは少しも必要ではない。