最近、認知症が進んできた姑ですが、いつも自分の身体
の不調を訴えています。
それと、私に迷惑をかけて申し訳ないとか、情けない
早く死にたいということを言います。人に頼らないと
生きていけなくて、それでも死ねない辛さをいつも訴え
られます。
姑がかわいそうだと思うと同時に、私は、姑と何が違う
のだろうか、と思いました。
以前の記事に書いたように、自分で動けることの
ありがたさ、とか、生活できる体力があることに、
本当に感謝ができないのであれば…
情けない情けないと嘆いてばかりのところや、心が
苦しい苦しいと、マイナスの部分しか見ることが
できないのであれば…
90近い姑が、間も無く寿命を迎えるかも知れないという
ことと、私がもし、病気や事故で命を落とすことがある
としても、そんなに違いがないのではないか、と思い
ました。
今の時点で、「生きる」ということに、真剣に意識を
向けて、一日一日をしっかり生きる、ということをして
いかないと、
このまま、毎日の出来事に右往左往しなが、無意識に
同じことを繰り返して生活しているだけでは、
年を重ねていって、体の不自由さが加わっていった
とき、気がついたら、もっともっと苦しい状態になって
いるのではないかな、と思いました。
高齢の方で、病気だったり、体に痛みがあったりで、
体が不自由だとしても、心が前向きな方が、時々
いらっしゃいます。
ほぼ認知症はなく、90過ぎた方や100才に近い方でも
一人暮らしをされている方がいます。
そのような方に共通していることってなんだろうと
考えてみました。
信心深い方で、何か信仰されている方に、何人か会った
ことがありますが、その中の1人に、
神さまにお任せの心境なのか、自分の体の悪いところは
自分の過去の行いのせいだから仕方がない、と受け
止めて、日々一生懸命生きておられる方がいらっ
しゃいました。
その方は、99才まで一人暮らしされていました。自分の
体が大変なのに、人の体の心配をしたり、若い人の結婚
のお世話までしようとしたり、人との関わりを大切に
する人でした。
もう1人、知り合いの方で、米寿の誕生日までに今まで
書きためた短歌の本を作りたい、という方がいます。
お体は脳梗塞後のため、不自由で、ヘルパーさんが
毎日入っているような方ですが、若い子は、いろいろ
教えてあげんと何にもできん子がおる、と言われて
まして、
そうやって若い人たちに関わることを楽しみにされて
いるようで、人に助けてもらいながらも、自分の信念や
意思をしっかり持って、生活されているように見受け
られました。
私が、辛いなぁと思う時は、意識が完全に自分のこと
だけに向いているということが、後になると分かります。
誰かのことを心配している時は、無意識に、自分が
がんばって支えてあげなきゃ、と思ったりしているのだ
と思います。
最初の、姑の話に戻りますが、自分がどんなに情け
なくても死ぬこともできない、という気持ちで介護を
受けている人のことを考えたら、
まだ、私は人のために何かできる、というのは恵まれた
状態であるのだと思います。
感情は、あっちこっち動きますが、こうやって、
一つ一つしっかり考えていくと、感情の変化の軌道修正
的なことができてくるので、
日々の落ち込みやすいパターンに陥らないように、
しっかり自分を観察して、生活してみようと思います。
こんなことを考えていたら、とりあえずがんばる、という
のではなく、自分の人生をしっかり生きるために、日々、
瞬間瞬間を大切に生きようという意識が少し持てました。
それで、最終的には、何が起こっても、動じない安定
した心で、穏やかに生活していけるのが目標なのですが、
まだまだ今日も、右往左往しています(⌒-⌒; )
〈今日のお弁当〉
