Lu…!

お料理のほうは foresteara
FBのほうは Lucy Withflowers

梅雨の語源??

2024-06-22 05:11:42 | 日記

つい先日「梅拾い」に行ってきた。梅酒には青い梅を使い、梅干しを作るには熟してしまった橙々色の梅を使うそうだ。農場に着くと見た事もないような大きな梅の木につぶらな梅がたわわに実っていた。

「ドサ ドサ ドサ〜」と降ってきたのは雨ではなく梅。

腕力の強うそうな男の人達が2〜3人梅の木の枝に手を伸ばしてガシガシ梅の枝をゆすりにかけるといっぺんに大粒の梅の実がドッと落ちて来た。

何も知らないわたしは木の真下にいて梅の実の落下を身をもって何度も受けてしまった。というかそれが楽しかったのかもしれない。小さな子どもも気にしていなかったし近所の高齢のご婦人達も気にしていないご様子だった。みんなニコニコしながら梅の実が降ってくると大急ぎでせわしなく梅を拾い集めた。

わたしは人生初の「梅の雨」に独りで大騒ぎをして「梅落とし」がどうの、「梅拾い」がどうの「これこそ梅雨だ!梅雨!大豪雨!」と大興奮だった。見知らぬ方達に大きな声で話しかけ、しかし、気持ちの優しい方達ばかりだったので何故か無視される事もなく相手にしてもらってしまった。ご婦人の一人などは「梅落としって季語?そういう季語があるの?」「あら貴女俳句を詠むの?」などと話しかけてくださって、これまたずいぶん高められてしまった。『俳句なんて詠まないし〜』「季語かどうかさえわからないし、第一そんな言葉がそもそもあるかどうかさえわからない」そんな思いつきで言った事をそんなに褒めないでおくれよ。

おそらくそんな事を勿体ぶらずにスッと心に入って来て話しかけて来てくださるその女性こそ俳句を嗜む方だったのだと思う。彼女はそんな心の人でそんな喋り方をする女性だったと思う。

あまりお褒めくださるので気恥ずかしくなってしまったが今思い出すと心底お優しい方だったのだと思えてくる。グスン、ホロリ。心に出来た温かい水たまり。楽しい1日だったなぁ。

今でも梅の実がポンポンと背中見当たった時の感触が忘れられない。

正に梅の雨。

濃厚な香りが始終漂っていた。

確かに「梅雨どき」の雨ってたまにこんな風にボタボタ降ることもあるのでそれを思わせた。

 

 

2024年6月21日 (金曜日)

 


ガザの人達のこと

2024-06-15 17:39:16 | 日記

ずっとニュースを読み続けて来た。わたしは最初単に海外在住のユダヤ系の気持ちから考えようとして行き過ぎてしまった。しかし立場の違うユダヤ系の人達のお話をお伺いする機会があって、やっと、というか、ついに段々と、現在イスラエルで起きている紛争問題はイスラエルの政教一致の異端によるものという考えに落ち着く様になりました。

ユダヤ系でもガザの人達が好き過ぎて公然とイスラエルを批判をする人達は多勢いる。こういうユダヤ系の人達はパレスティニアン達に分身か何かの様な非常に濃ゆい肉身の情の様な感情を抱いている様に感じるのですがそこに気がついた方はこのブログを読んだ人の中にいないかしら。

行き過ぎというか聖書に反した政教一致というのはキリスト教にもあるけれど、ガザのあれは酷かった、目も当てられない。政教一致というのは良い方に働けば素晴らしいことに違いないけれどよくよく吟味すべき事に違いない。キリスト教においてもそれは同じ。

そのガザ愛が止まらないちょっとユダヤ系のお友達は根っからの無神論者なんだけど「あなたの心は全然異端的じゃないのね」と言ったらショックのあまりしばらく口を聞いてくれなかった。そんなものに自分を当て嵌めてなんか言われた事にさすがに目が点になってしまったのだと思う。

その方の長年のガザのお友達が5月だったかに英語記事になっていたので皆様とシェア致します。たしか東大でこのキャンペーンをやっていた様です。

 

 

https://www.news-journal.com/gaza-born-activist-returns-to-japan-to-support-university-of-tokyo-solidarity-encampment/video_93cd48d5-c130-5f97-9245-81a0f72787c2.html

 

 

 


よく神様っているのぉ〜と聞かれるけど。

2024-06-15 17:31:58 | 日記

よく神様っているのぉ〜と聞かれるけど、どうして神様がいないと思う人がいるのかよくわからない。

まぁ。母親の愛もそうだけど、もし母親の愛を信じられなかったら、まぁ、いるような、いないような、「まぁいたけどサ」ということにならないだろうか。母の愛とか言っていろいろ思い出すことが出来る人は「自分にはお母さんがいたんだな」と素直に思うことができるのだろうけど、私はいろいろな事情があって、若い時、本当に素直に、ちっとも母親の愛を信じられない方の人だった、しかし、歳をとったら、割と逆の意味で素直にいろいろ良いことを思い出す事が出来るようになりました。(そもそも素直の意味がアベコベになってしまった)。

神様も「神の愛」を信じられなければ、「神様っているの」という事に余計に目に見えない分だけそうなるのではないだろうか。

そこで。神の愛って何よ、っていう事になると思うのだけど。

神の愛とはイエズス様が十字架に自らのぼったという事に他ならないのではないかと思う。神の愛は既にこれ以上無いという形ではっきりと2000年前に現されているのでは。

神の愛は、信じる為というよりは、「深く識る為に」現されたように思う。(まぁそれは信じる為なんだけど)。

神の愛は約2000年前に、まざまざと現され、それをわたし達は、見て識ったのではないだろうか。神の愛がこの様な形で胸に刻まれたのではないかという気がする。

イエズス様の十字架を見て、誰も「神の愛」を見ない人はいない。

十字架を見た人は皆神の愛を識るのではないだろうか。

十字架を知らない人達が「神様っているのぉ?」と未だに質問してくるのだ。

このお話はおそらく毎日ロザリオを唱えているような人が心の内に明かされた事なのではないかと思う。その毎日心を痛めて祈っている人というのは言うまでもなく私ではない。さぁみんなで唱えよう。「わたしは神の愛を信じます」と。『わたしは十字架をこの目で見たのですから』と。

そしてその方が復活されたとあっては?

 



アーメン   アーメン   アーメン   アーメン   アーメン。。。。。

あの時のゴルゴタの丘でのヘブライ語。

そして聖霊降臨の時のヘブライ語。

ハルメギドに苦しむわたしのヘブライ語。

( = 山 - 人々・民衆) 

 

 

イエズス様は仏教徒にとっても救い主。