プラスチックは、あんまりだけれど、彼らの気持ちの中ではそうなのだろう。
司祭の独身制もユダヤ教の伝統の中にはないと主張しているし原始キリスト教時代においては司祭は世襲制で結婚していたという主張まである(宗教が確立しておらず自由意志だった??) 。聖体拝領を手で受け取るのも古代の伝統に反するという物の見方も頻繁に見かける。
しかしローマンカトリックは これで良いのではないかと思っている。
ヨシュア、イエズスが、新しい過越の祭りを定められた時、弟子たちは意味もわからず手に取ってモシャモシャと普通に食べたに決まっている。だけど その時の理解だけがキリスト教の信仰の全てであるわけがない。
キリスト教史に名を連ねる殉教者達や証聖者達はあるいはマキシミリアノコルベ神父様の現した信仰はどうなる? やはり胸がいっぱいになってかけらを噛むこともできずに飲んでいただくというのは正しいと思う。ありがたくて涙が出そうになって胸がいっぱいなら噛むことなどできるわけがないからである(おおよそ)。
時代とともにキリストの十字架がより深く理解されより深く受け止められるようになって徐々に変化してきたのではないかと思う。時とともに深まった理解をなぜ今更否定するのか?
あれこそがタイムレスな究極の愛への答えだったのでは?
悪いけどタンゲケンゾウ親分のデザインしたカテドラルの建物なんか なんか頭がおかしいんじゃないかと思ってしまっている。本当にごめんねー。ごめんなさい。こんなにはっきり言っちゃってなんだか悪いなと思っています。でもどうしたらいい? やろうとしている事が全然ずれてる(ていた)と思います。反救世主的な共産党の党本部の遺構なら正しいと思うし、これはスゴいとかなんとか言って建造物として鑑賞したことと思う。なんかそういう詩的センスのある人達があの建造物を注文したのでしょうね。今(2022年)見るとなんか変というより「何やってたんだろうね、何をやろうとしていたんだろうね」という感慨で胸がいっぱいになります。
まぁー。わたしの言っている事がわからないんだったらそれでもいいけど。
何か歪んだ宗教の価値観に振り回されてしまっていた自分が かわいそうで仕方がない。子どもの時から馴れ親しんだものへのこれは率直な感想だ。
大きなため息をつきつつ 「愛が、これ?」と虚しくぼやいているだけです。
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