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何が何でも一緒

2022-05-06 06:22:47 | 日記

(携帯の誤操作で下書きになってたのでも一度掲載しますが内容同はじです)

イエズス様は ご自分の民のために 十字架の上で恐ろしいような苦しみを受けて死んだ、あのっ、ユダヤ人ために、ゲッセマネでも心を痛めて、えぐられるような痛みだったに違いない。そして十字架に上る準備をした、ご自分の民と何がなんでも一緒、絶対、絶対、 一緒って思って十字架に上られたのではないかと思う。

 

イエズス様は正統派の王と大祭司の女の末によって肉を受けこの世に来られた方。わたしはローマンカトリック(あ~よかった)だけれどイエズス様のその時の思いの全ては 本当に全ては ご自分の民に注がれていたのではないかと思う、(わたしなんて食卓下のマルチーズ犬)。もちろんわたし達はその後聖霊のお導きとこの宗教によって救いに同じように導かれるようになったのだと思うけど。

 

ところで その思いについてだけど、それは、彼らの王じゃなきゃ言えない事だ(王の域を超えている)。

 

ユダヤ人があーだこーだではなく何が何でも一緒だと思ってイエズス様が死んだ事を思い出そうと思う。

 

私も自分の母が信仰の純粋さを嫌うようになって、「そんなことはないですお母さん」と祈るようになってしまった。こんなに素晴らしい宗教を教えてくださったのはお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さん、あなたなのだから、あなたなのだから。何がなんでも一緒、天国では一緒と念じて祈っています。ただの自分の思いかもしれません。でも祈らずにはいられないのです。とはいうものの、にもかかわらず、しょっちゅう昔の事を思い出してどうしてお母さんは、などという思いに迷い込むのも事実でどうにもならない、そこには救いはない。はっきりと自分の心がその様に揺れ動くのを自覚してからは自分の心にはもう本当に心底愛想を尽かしました。わたしは本当に小さくなってそれを皆さんに言い表します。お母さんのためにお祈りください。

 

たぶん30年位前、家族の墓碑を刻むのに何がいいかと聞かれて仏足蹟歌の一文を 当時とあるカトリックの司祭に「ここのとこが好きなの」と資料をそろえてお見せして「神父様が何かキリスト教の墓碑にふさわしい言葉を考えて」と言ったら「共にみ里に到らせ給え」という一文を下さいました。この言葉には今でも日々本当にへりくだらされています。辛いこともあり恥ずかしながら面倒くさいこともありまた自分の高慢さに気づいて慌てふためいたり、そして何とかかろうじて愛する気持ちにさせられたりしています。日々小さくされています。

 

血縁のない親戚から「昔クリスチャンは自分だけ救われようとしている」と嫌味を言われたことを本当に真剣に受けて身だしなみを整えるようにしています。

 

 

 

 


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