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人生初の鮎釣り

2024-08-27 01:28:18 | 日記

今日は〜人生初の鮎釣りに行ってきた。正直15分くらい糸を垂らしてすぐギブアップ。でも意味もなく糸を垂らし続けて一緒に行ってくださった84歳の叔父とまたもや大声でお喋りをしていたらいろんなおじさん達(皆品位ある紳士達)が近づいて来てくれてわたし達のビクを一杯にしてくれた。

84歳かぁ。いつかきっと懐かしくなって泣いてしまうんだろうね、わたし。。。。

大切な釣果である鮎をお分けくださった皆さんは友釣りのエキスパートのような方達で「全然釣れなかった」と言いながらも「鮎釣り用の船」にはものすごくいっぱい鮎が詰まっていた。「随分お釣りになられたんですね。今夜は鮎の塩焼きですか」とお伺いすると皆口を揃えて「いやぁわたしは鮎は食べない」、えーーーーーーーーー。逆にこの世には鮎を食べないのに釣る方達がいるのかと驚きました。居酒屋のご主人様かなと思い「お客様にお出しするのですか」と聞くと「いやわたしはオトリヤ」さんとのこと。オトリヤさん?

大物鮎も含めて大小様々の鮎を何も労せずして大量に獲得してクーラーボックスに詰め込むとなんだか自分が釣ったかのような気にさえなってしまった。(うそうそ)。84歳叔父と山賊の如く山分けをした。へへへ。

ネットで氷締めのことくらいは学んでおいて良かった。

こうしておくと10分少々であの恐ろしい神経締めや頭叩きをしないで勝手に死んでくれるのだ。(注意; 鮎には神経締めはそもそもやらない)。

でも。

10分は寒さの中でもがき苦しむのかと思うと心が痛んだ。

でもでも他の方法だとわたしが夜眠れなくなると思う。

なにしろゴキブリを毒殺で苦しみを与えて殺すことにも同意しかねるのがわたしなのだ。瞬殺以外は認められない。

時々2ミリくらいの虫を瞬殺して悪いわねぇと謝る始末。

今我が家に持ち帰りフィッシュロースター(普通の魚焼きグリルとかいう部分)で3匹焼いてみた。フィッシュロースターの引き出しを開けてみたら鮎は3匹とも口を揃えてグワっと口を開けていた。(『こんな風に口を開いてしまうものでしたっけ、もしや生きていた? 本当は死にきれていなかったんで途中で覚醒して、業火の中で 苦しくて口をクワッと開けたのかしら、』そんな思いが頭をよぎった)。ちょうど良く焼いたつもりだったんだけど壮絶なものを見てしまったようでまだ食べていない。

どうだろう、鮎、身の芳香がスイカのようかしら、伝説の通り。。。。。。。。

まだ少し残っているので冷凍しようと思う。

明日、多摩川の川っぺりに蓼を取りに行くつもりだ。

蓼酢で食べると美味しいんだそうだ。

 

 

 

 

2024年 8月26日 月曜日 台風前夜

 

世間一般はわたしの様な人の事を偽善者と言うのだろうが、ふわりと柔らかくほんの少しだけ滑りのある鮎のしっぽをちょいと摘み上げフィッシュロースターに並べる時どれほど壮絶な思いになった事か。生涯ベジタリアンを通した祖母は「失神しそうになる」とよく言っていたがわかる様な気がする。必死で鮎と目を合わせない様にしてグリルに身を並べた。でも最後の1匹と目があってしまってガツンと来た。人によってものの感じ方というのは違うものだ。

 

その生涯ベジタリアンの祖母が必死で戦中戦後に自分の子ども達には栄養を取らせようとして失神しながら肉でも魚でも食べさせてくれた。その甲斐があってかおかげさまで皆長生きをしている。皆ちゃんと寝たきりにならずになんとか生きている。申し訳ない申し訳ない。ありがたい事だ。すまない。かたじけない。

 

後日談; このブログを書き上げたあと意を決して実は食べたんです、その、釣ってきた鮎を(わたしが釣ったわけではないけど)。んんんんんんんん〜んまぁ〜い。こここここここんなに、んんまいのか〜。美味し〜い。へぇ〜。確かに微かな芳香の様なものがある。これがスイカの香りとかいう鮎の身の匂いのこと?へぇ〜、とひとしきり感心しました。

もうすっかり冷たくなってしまっていたけど得も言われぬ微かな匂い。

 

 

神様ってすごーーーーーーい。

 

 

 

 


ガリラヤのマリア様

2024-08-09 08:36:10 | 日記

*普通、ナザレのって言うと思うのですけどこの記事は私見ですしうまく他の言い方が見つからないのでガリラヤのマリア様とだけ言います。この記事はちっともみんなに向けて発信しているわけではありません。忘れないために色々自分の言葉で書き留めておこうと思っているだけです。

 

うまく言えないけどわたしは地で(自然に)ガリラヤのほうの信者になってしったのだと思っているので正直教会のみんなとは全然波長があっていないし特に合わせようとも思っていません。幸せなぼっち信者です。幸せですよ。

 

ぼっちのくせに毎日ちょこちょことお祈りを楽しみにしています、でもちゃんとやってない。まぁその他色々。でも教会から授けられたことをすごく気に入って大切にしています。

 

このブログの記事は岡目八目でちょっとそういう意味ではずるいのかもしれないし「えっらそうに」と言われてしまえばつい、大納得してしまうと思うのでもし迷惑に思う人達が教会にいたらなんていうかその申し訳なく思います。でも言わんとすることをよっく考えてもらえれば迷惑なはずないのですけどね〜しょんぼり。

 

最近時折思うことなのですが、あまり今の教会が言っていないことでものすごく重要なことが幾つかあるのではないかと。それでそれを理解してないと死ぬほど「やべぇ」んじゃないかと思うことがあるのではないかと思うのです。

 

それはガリラヤのマリア様のこと。

 

わたし達日本の信者は彼女の怖さをわかっていないのでは?なんか甘く考えているのではないかと不安になることがあります。

 

マリア様に寄せられているたっくさんの美辞麗句。

 

( ( (((   お気をつけください  ))) ) )

 

ガリラヤの。。。。。。マリア様が。唯一。本当に唯一。心に留めていることは。マグニフィカト。(英語読み)、フランス語ではマニフィカトと言っているようです。あのお祈り、読んでいて心底恐ろしいと思ったことはありませんか。

 

熱心なシスター達から「この世のものは愛さないようにって生きてきたわ」、というお話しを聞いたことが度々あるけど若い時は全く意味が分からずむしろ心の中でこっそりと反発までしていました。その時は非常に苦しく思ってしまった。(苦しかった)。

 

でもこの老齢に至ってふと「正しい」と思うようになり畏れるようになりました。あれ正しいです。

 

わたし達の愛は愛ですらこの世のものであってはいけないのです。恐ろしい限りのことですが。

 

それをきちんと、「死ぬほど、身に沁みて 」わかっている人達がヨーロッパの宗教者達がマリア様に冠した麗しいお名前の数々を申し上げるのはむしろ良いことだと思いますけど。

 

でも本当のマリア様のことを忘れることは非常に危険です。怖いよ〜。パニクってお母さーんとか言って泣き出しそうです。それほど。

 

わたし達の愛はマグニフィカトにふさわしいものでなければなりません。恐ろしい。

 

みんなもっとガリラヤのマリア様がどんなご生活をしていたのか、どんな宗教教育の環境でお育ちになったのか、どんな目で。。。。。。。当時のご自分の民を見ていたのか、愛が、彼女にとってどんなものだったのか、真剣に考えた方がいいのではないかと思います。

 

愛を優しさやモフモフした肉体的な深さだけで考えたり、感じようとしているだけでは正直怖い。果たして彼女にとって一番大切にしていたほうの愛が(色々ある愛の中で) そうしたものだったのかどうか。。。。そうした通常の愛を否定しているというよりはそうした愛の(恐ろしいことですが)行く末の末にその果てにこの世の不当な仕打ちの果てに辿り着いた神への愛は一体どういうものだったのでしょうか。

 

彼女のファミリーが何故ガリラヤにいなければならなかったのか、考えたことがありますか。彼女が神に身を低くして毎日祈っていたことは、マグニフィカトの祈り。彼女の「汚れなきみ心」とはかくも恐ろしきものに違いない。

 

当時のエルサレムでの異端は甚だしいもので日本人であるわたしが読んでも目に余るようなズレが生じていた。それをガリラヤで時折り見聞きして如何ばかりの思いを胸に秘められていたことかと思うとわたしの胸も潰れるばかりです。

 

2024年の教会はこれからのことを考え、もっと日常的に恐ろしいマリア様のことも信者達に教えなくていけないと思います。彼女の真剣を知るべき。黙示録はマリア様の汚れなきみ心についてだと思うし人類がどのような成れの果てになるのかよく予言されていると思います。

 

悔い改めることを全く知らない人達がいます。

 

宗教者達はどうか悔い改めることを教えてあげてください。

 

本当のことを教えてあげてください。

 

信者達は素直に「わたしを戒めてください」といつも素直に言えるように!

 

礼節は公会議前の礼節に戻るほかに道はないと思います。

 

イエズス様にして頂いた事が全くわからない人達もたくさんいます。イエズス様に「どうかこの人達を許してやって欲しい」「許してあげてほしい」と言ってもらった人達がいます。自らを生贄として差し出して十字架にかけられることをその人達のためによしとしたのだと思います。

 

付録;

「信じられないという方のために」

譬えばのお話しだけど『ねぇ、園子を許してあげて』と言ってどっかの家のご主人様が泣いて頼んできたらどうだろう。認知症になってすっかり性格が変わってしまった自分の妻がみんなに迷惑をかけるようになってしまってご主人様のほうが出向いてきて泣いて赦してあげて欲しいと言ってきたら。そして自らの生命を代価として差し出してきて「どうか許してあげて欲しい」と頼んできたら。たぶんどうしようかと思ってしまうことだろう。

そしてそれを言ってもらったほうの園子さんは、そこまで気にして思ってくださるご主人様をやはりその愛を信じないかしら、(認知症がある場合はわからないかもしれないけど、いや、そういうことは結構ちゃんとわかるらしい、ウグッ、決して決して捨てたもんじゃない)。

少なくとも園子さんだってご主人様が自分を愛してくれているということだけは信じるのではないでしょうか。そんなご主人様の愛をもし信じなかったらもうなんだかバカみたいじゃないですか。ヒトとして。

 

 

していただきましたことは?

 

 

してもらった事が、本当に本当に

わかれば、

今のような時代でも、

愛は信じられるのでは。

 

してもらったことがわからない人が

信じられないのだと思います。

 

してもらったことがわかる人になりたいな。

そしてわたしも信じたい。(ここでは神の愛のことです)

 

だから、「していただきましたことは?」と問われてみてくださいね。

 

 まぁ譬えばのお話しですみません。

 

耳をすませば「赦してあげて」と

十字架から聞こえてくるようです。

 

ユダヤ人達はそれを言ってもらった人達です。

 

わたしはローマンカトリックという宗教を通してそれを言ってもらいました。

 

 

 

2024年8月9日(金曜日)

後記 ちょっと説明が足りなかったと思いますがイエズス様は自らを生贄として捧げたという下りですが御父に赦しを請うためにという理解をする必要があると思います。わたしが言ったことだけだと誤解をしてしまう人がいるかもしれないと心配になりました。人間同士のことをわかるとと御父への特別な愛にやっと気づくこともあるのでどうか寛容なご理解をお願いいたいます。厳密に言うとイエズス様が「赦してあげて」と苦しい十字架から頼んだ相手は御父に対してです。お間違えなきようお願いいたいます。ただイエズス様のみ教えでは常に人を許すようにあるのでその様な理解をするようにわたしは個人的に努めております。24年8月10日土曜日