m-family の 「PHOTO 日記 」

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二十四の瞳

2015年02月09日 | 身辺雑記
映画『二十四の瞳』オリジナル予告編


泣きまくり。(恥)
目が腫れました。

職場の、ものすごく映画好きの、数百枚のDVDのライブラリをお持ちの同僚から一枚借りました。


『二十四の瞳』(にじゅうしの ひとみ)は、1954年(昭和29年)に公開された松竹大船撮影所製作、木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画である。
日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていく女性教師と生徒たちの苦難と悲劇を通して、戦争の悲壮さを描いた作品である。
1952年(昭和27年)に発表された壺井栄の小説『二十四の瞳』が原作であり、この2年後映画が公開された。(wikipedia)

1928年(昭和3年)、普通選挙が実施される一方で治安維持法の罰則が厳しくなった年に「女学校の師範科」を卒業したばかりの正教員の大石久子(おなご先生)は、島の岬の分教場に赴任する。そこに入学した一年生12人(男子5人、女子7人)の児童の、それぞれの個性にかがやく二十四の瞳を前に、この瞳をどうしてにごしてよいものかと感慨を持つ。
若く朗らかな大石先生に子供たちはすぐになつき、信望を集めた。しかし颯爽と自転車に乗り洋服姿で登校するおなご先生は「ハイカラ」であることを理由に、保守的な村の大人達から敬遠される。些細な誤解から面罵され、思わず涙する事も。しかしいつでも子供たちはおなご先生の味方であり、支えであった。
そんな折、大石先生は年度途中で子供たちの作った落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂。分教場への通勤が不可能になってしまう。大石先生が不在の中、「おなご先生」を一途に慕う子供たちの姿を目の当たりにした村の大人達の態度も軟化する。大石先生が子供たちにとってかけがえのない存在であることを理解したのだった。やがて怪我が完治した大石先生は本校へ転任する事となり、村の皆に見送られ、再会を約束して分教場を去った。
1932年(昭和7年)、5年生になった子供たちは本校に通うようになり、新婚の大石先生と再会する。しかし昭和恐慌や東北飢饉、満州事変・第一次上海事変と続く戦争といった暗い世相は、大石先生を始めつつましく暮らす生徒達のそれぞれの暮らしに不幸の影を落とし始める。
1934年(昭和9年)春、戦時教育に憂いを持った大石先生は教え子たちの卒業とともに教職を辞する。12人の生徒たちはそれぞれの運命を歩む。彼らの行く末を案じ戦地へ赴く教え子には「名誉の戦死などするな、必ず生きて帰れ」と声を潜めて伝える大石先生だった。
1946年(昭和21年)、船乗りの夫を戦争で、相次いで母親も末娘をも亡くした大石先生はふたたび教壇に復帰する。幼い児童たちの中にはかつての12人の児童たちの近親者もいる。点呼を取るだけで涙ぐんでしまう大石先生は、その昔「小石先生」とあだ名をつけられたように「泣きミソ先生」と呼ばれることとなる。教師の道をえらび、母校に勤務しているかつての教え子の呼びかけで、12人(のうち消息のわかるもの)は大石先生と会合をもつ。貧しさから波乱の人生を余儀なくされた者、家が没落し消息を絶った者、誰にも看取られる事なく病死した者、遠い海の向こうで戦死し2度と帰ってこない者、戦場で負傷し失明した者。時代の傷を背負って大人になった彼らは、大石先生を囲んで小学1年生のあの日皆で一緒に撮った写真を見る。(wikipedia)



全編を通して反戦思想が貫かれています。公開されたのは私が二歳のときです。
終戦から9年後。たぶん、戦争の記憶がまだ生々しく残る一方で社会が復興をとげて落ち着いてきた頃でしょうか。


小学生のときに学校の講堂での巡回映画会で見た記憶がありますが、小学生の私には難しくて内容が理解できなかっただろうと思います。

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