これも私にとってはコロナのお陰。
アメリカが新型コロナウィルスで死者が大勢出て、NYなどパニックになってきて、大変だった頃、
音信不通のアメリカにいる友人マリアに手紙を出した。メールアドレスは分からなくなっていたから。
コロナにかかっていないかしら?
亡くなってなんかいないよね。
今でも同じところに住んでいるかしら?
もしかして、スペインに帰ってしまっているかしら?
こんな思いを抱きながら、アナログな方法で。
4月頃だったかな?
そんなこともすっかり忘れていた7月の始め、PCに1通のメールが飛び込んだ。
「連絡ありがとう!元気でいるよ。Zoomで会おうよ」と。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ 生きてる! 元気でいたんだ!」
良かったぁ!
それにしても、3ヵ月もかかるとは・・・。
彼女と知り合ったのは今から37年前。
イギリスの小さな町の英語学校で、
お互いちょぼちょぼの英語能力で話していたころ。
彼女はスペイン人でラテン系特有の気さくな性格で、英語の文法はハチャメチャでも延々とまくし立てて喋る。
その能力を尊敬したわ。日本人は文法が先に浮かんで喋れないでいるから。
すっかり親友になり、どこへ行くにも一緒に。
お互い帰国後に一緒にドイツへ行ったり、彼女が日本に来たり。
でも、本当に筆不精な人で、手紙を出してもなかなか返事が来ない(そのころ、メールなんて存在は無かった)。
だから、いつも、今どこにいるのか、生きているのかさえ分からない人で、
大昔には、私は必至でスペイン会話本を片手に彼女のスペインの実家に電話して消息を尋ねたこともあった。(今から思うとよくやったわ)
そんな彼女は、帰国後、アメリカのカルフォルニアで英語の教師になってヒスパニックの子ども達を教えていた。
最近では9年前に私がアメリカに行った時に会ったきり。
さあ、そろそろリタイヤの歳、今彼女はどこに・・・
何もないと、お互い忙しくて連絡も取らないけど、東日本大震災の時に、やはり向こうから手紙が来た。
「大丈夫か?」と。
今度は私の番。 「大丈夫か?」
でも、それから無しのつぶて。
すっかり忘れていた。
今回、コロナのおかげでZoomが流行り、簡単に顔を見て話せるようになった。(前からスカイプとかあったけども)
いつが都合が良いかと聞くから、いつでもOKと言っていたら、昨日メールが。
「今から2時間話せるけど・・・」と。
ちょっと待ってよ、このメール来たの1時間前じゃない!
慌ててメール返信するも何も来ない!
「あんたねぇ、そっちが2時間OKと言ってきているなら、待機しなさいよね」
Zoomを準備して待つこと1時間。
何も無し。
相変わらず、ラテン系だわね。
諦めた頃に、「明日の同じ時間に」と来た。
やれやれと思いながら、でも顔を見て話せることにワクワクしながら待つ。
繋がった! 9年ぶりの再会!
元気でいてくれて良かったとお互いにホットする。
昨日、都知事選挙が20時に終わった途端、小池現知事の当選確実が発表された。
「えっ、今終わったばかりで、投票箱も開けられていないはずなのに・・・」なんか、不思議な、嫌な気持ちになったのは私ばかりではないでしょう。
「どうしてわかるの?」と言うのが素直な疑問。
昔は、選挙のあと、深夜までテレビにかじりつき、誰が入るか、ワクワクしながら結果を待ったものだったが、今はいくらテクノロジーが発達したとはいえ、1分も経たずに、当選確実が発表される味気無さ。
これが投票率の悪さにも影響していると思われて仕方ない。
小池知事の当選を云々言うつもりではない。 私は投票率の悪さを嘆く。 37.32%(翌日の朝の時点で)だと。
世の中の政はたった、4割の人の意見で決まるのか。しかも当選者は選挙権のある人の4割で当選したのではない。
もっと少ない割合で選ばれていることになる。
今の国政だってそうだ。 圧倒的に自民党が人気があって選ばれているのではない。
無関心の人が半分以上いるのだ。
でも、実際生活に不都合が出れば文句をいうのは全員なのだ。何かおかしくない?
幸いにも私の周りには意識の高い方ばかりがいて、選挙に行かないなんて言う人の方が少ない。(党派は全く関係なく、組織でもなく)
ある知り合いは、選挙のために実家から新幹線で帰ると投稿していた。私たちの先人が頑張って取得した選挙権を行使しないのは申し訳ないと。
まさに、その通りと思った。その時に、ふっと園田天光光先生や市川房江氏のお顔が浮かび、女性参政権のことを思い出した。
今から100年くらい前には女性には参政権が無かった。私たちの先輩たちは、「これはおかしい」と戦って戦って、やっと女性にも選挙する権利を勝ち取ったのだ。
だが、今はその権利さえ捨てられている。
私の好きな平塚らいてうの『青鞜』の巻頭言に書かれた言葉。
【元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
さてここに『青鞜』は初声を上げた。
現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。
女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。】
私たち女性は、太陽であるのだと。温かく周りを照らす太陽なのだと。
その女性たちが政治にもっと参加したら、世の中はもっと良くなるのではないかと思えてならない。
少なくとも、女性の選挙権のある人が全員投票したら、世の中は変わってくるはずなのだが。
私たちは、月であってはならないと。
誰かが何かしてくれるだろうと、何もしないで甘えて文句だけを言っていてはいけない。
まずは、権利を行使するところから始まるのだから。
もっと自立しようよ。
《白神の森の精》 Photo: GOTOH Chiharu
今年ももコロナ騒動の中で、早くも半年が過ぎようとしています。
そんな中で、私は今、マヤ暦を学んでいます。
マヤ暦を学んでいると、「0の概念」と言うのが出てきます。
このところ、色々な言葉が多角的に私のところにやって来て、しかもみんな繋がっているように
思えて来ました。シンクロしているのかしらと。
【「0の概念」 断捨離をして執着を無くすと、心配や取り越し苦労もなくなります。人事を尽くして天命を待つ、すべてを天にゆだねる、任せることで真の自由を得れれる】と解説されていました。
丁度、『私は今、断捨離をしており、要らなくなったものをただで譲るコミュニティがあると知った』とFBに投稿したばかり。
断捨離をしているのは、今だから。(前からずっと思っていたけど、中々出来ずにいて、スティホームで家にいる、時間があるからでもあるのだが)
このコロナパンデミックで考え方、生活が大きく変わってきて、気づき始めていることが多々あり、その1つに自分自身を削ぎ落そう、つまり物も人間関係もしがらみも過去も、すべて断捨離しようと思えてきたからでもあります。
そう、お陰様で家も心もスッキリしてくるので不思議。今に焦点を当てたら、今まで大事にしまっておいた過去の物など、どうでも良くなってしまう不思議。
これからは本当に縁があれば、必要ならば、また出会えるでしょうし、戻って来るでしょうからと、キッパリ捨てています。
新しい人生へ旅たつのに、荷物は多く持てないし、重荷になるだろうからと。
軽くないと「ステップ軽く」とは行かないからね。
次に【意識することの大事さ】
【カラーバス効果】というのがあって、私たちの脳は視覚から入るものすべてを処理していると膨大な量になるので、その中で意識しているものを選択をしながら情報処理しているのだそう。
何気なく周りを見回して、ふと今、赤の物は何があったか思い出してみる。
今度は「赤」を意識しながら、周りを見回してみると、赤いものが目に入ってくるようになる。
ということらしい。
私は赤い車を購入してから、やたらと近所に赤い車があることに気がつきました。笑
だからこそ、大事なのは、【意識をすること】で、
何を意識するかで入ってくる情報が違ってくる。
入ってくる情報も違えば、その後の行動も違ってくる。
つまり、人生も変わってくる。
私の意識することは、「今に焦点を当てること」これかな。
今何をするか、何をするべきか‥‥。
そして、【人事を尽くして天命を待つ】 これもどこかで同じようなことを投稿した気がして…。
今を一生懸命生きていくということに焦点を当てると、この言葉も生きてきます。
つい最近、友人がFBで投稿していた話に、
イスラム圏では、物事を言う時に、必ず「インシャラ―(神のご加護を)」という言葉を付け加えるのだそうです。例えば、「10時に打ち合わせいたしましょう、インシャラ―」と。
つまり、「打ち合わせできますよう、神のご加護があれば」という意味らしいのですが、今このコロナの時には、まさに、すべてが「神のご加護を」と願うしかないとありました。
コメントで「宇宙に沿って」とか、「天のままに」とか、やるべきことをやって「インシャラ―」ですねと話が盛り上がりました。
宗教とは関係なく、「インシャラ―」とは素敵な言葉だと思いました。
すべて、やるべきことを一生懸命やった後は、「インシャラ―」で良いのではないでしょうかね。
今日も素敵な一日を!
約半年前に、誰が今の世界を想像できただろう。
1月に中国武漢から始まった新型コロナウィルス(Covid19)の蔓延。
あっという間に世界中に広がり、都市封鎖、ロックダウン、非常事態宣言。
5月の半ばを過ぎた今、私は2ヵ月近く、散歩を除けば自宅からスーパーと銀行にしかに出向いていない。
人との会合はすべてオンラインになってしまった。
だから、オンラインが出来ない高齢者の方とは時々電話で話すか、メールのやり取りしかできない。
すっかり生活形態が変わってしまった。
2020年は大変な変化の年になるとは聞いていたが、やはり対岸の火事的に聞いていて、こんなことが起こるとは思いもしなかった。
いよいよ、コロナが世界に広まって、「んんん?」となって来た頃から、これはただ事でないかもと思い始めたのは私だけではないだろう。
さてさて、この4か月あまり、あれよあれよという間に沢山の人々が亡くなり、医療現場は大変だとの悲鳴が聞こえ、毎日それ一色で報道されるコロナの恐怖情報。
何もわからぬまま、「ヤバイかも」と自粛を素直に受け入れて、人とも会わず、玄関にはアルコールを置いて外から帰宅すれば真っ先に手を消毒する。
そんな生活を2ヵ月以上。
でも、ここにきて、この現象を冷静に見れる自分が出来てきた。
何のために、コロナが起こったのだろうか?
私たちはこのことで何を感じ、何を考え、何をするべきなのか。
これは単なる1つの現象だけなのだろうか?
人々の死の恐怖とは反対にコロナによって良かったこともあった。
武漢が都市封鎖になり、しばらくして人工衛星から見た中国の上空が綺麗になっている写真。
泥水のようなガンジス川が澄んだ水になっている不思議。
生産活動が止まり、CO₂排出は確実に減った。
オンラインで色々なコラボが生まれ、人々のエールもたくさん生まれた。
芸術や演芸の新しい楽しみ方も思いついた。
私たちは何かに気づき始めている。
誰もが口を揃えて「世の中はコロナの前には戻れない」と言う。
しかも、
『今年は大変な年』なんて軽い言葉で表すほど簡単ではなくて、明治維新や第二次世界大戦後の世の中がガラリと変わった時のような、
価値観が変わり、制度が変わりと、世界が変わる『大変換の年』らしい。
私たちが今まで当たり前と思っていたこと、正しいと思っていたものなど、信じていたものの嘘が暴かれて、
現実を知るのだそうだ。
どうも「ただ変化が起こるのなら、じっとうずくまって嵐の去るのを待てばよい」とはいかないらしい。
思想が変わる、制度が変わるだけでなく、コロナの場合は死の恐怖もあり、
経済危機がやって来て生活が困難になる可能性も多々ある。
そのうち、食料危機もやって来るだろう。
でも現実には大変なのだけれど、ちょっと距離を置いて物事を眺めることも大切かと。
あふれかえるネガティブな報道に翻弄されることなく。
情報を選びながら。
何が正しくて何が間違っているのか、とても判断は難しいが。
この変動の波を乗り切るためには何をしたらよいのか?
本当に大切なものは何なのか?
コロナにおびえるだけでなく、本当はこちらの方が重要かと思えてきた。
【笑いヨガ】(ラフターヨガ Laughter Yoga) なるものがあると知ったのは最近。
シンガポールの友人がそのインストラクターをしていて、FBにアップしていたから。
ところが、昨日TVのニュースで日本の「笑いヨガ」を紹介していて、これって日本にも前からあるのだと知った。
このコロナの出来事で、一番大切なのは自己の免疫力をアップすること。
笑いは免疫力をアップさせるのに役立つとは知っていたのだが…。誘われてサロンに入ってみた。
いわば、笑いと深呼吸での健康体操。道具も場所も無くてもどこでも出来る。
ところが、発見!!! 笑うってこんなに大変だったの! (私の場合、シャイだからね)
自分はどちらかと言えば、笑顔を絶やさない人だと自負していたが、そんなことは無かった! 笑顔と笑うのは違うのだ。
落語を聞いたり、コメディーを観たりで笑うのとはちょっと違う。
何もないところで、アハハと笑い出すのだから。
私は根っからのシャイだから、いきなり笑えと言われても、大声でアハハ、アハハ、ホホホ、ホホホと笑えない。しかもパソコンの画面相手に部屋で一人で笑っていたら、家族は何と不思議がるかと思うとなおさら、小さな声になる。
いや、思っていたのとやってみるのでは大違い。自分のことがよく分かった。
ところが、2回目、恥ずかしがらずに意を決して笑ってみた。
笑いを誘う動作がつくので、少しは笑いやすい。
笑うって、誰でも簡単に出来るものだが、意外と笑うことをしていないと気がついた。
これも習慣なのだと。
インドから始まって、世界100ヵ国でこのクラブがあるらしい。
毎回、シンガポール、マレーシア、香港、ベトナム、メキシコなどの人と20分、ただ笑いあうだけ。
う~ん、続けてみたら数か月後には少し変わるかな。
毎週木曜日の12時(日本時間)から20分です。
https://www.facebook.com/saralaughteryogasingapore/
娘たちの幼馴染、仲の良いママ友のお嬢さん、石井麻土香さん(声楽家・ミュージカルシンガー)が癒しの歌声をYouTubuにアップしていました。
小田和正さんの「たいせつなもの」。綺麗な歌声です。
Cover by @madnne (石井麻土香) Twitter
最近行ったビジネスミーティングで、「このコロナウィルスで良かったことは何ですか?」と聞かれました。
コロナで良かったことなんてある?
人は病気にかかり、亡くなっていく・・・。
仕事はできなくなり収入が途絶えていく・・・。
未来が不安でしょうがない・・・。
みんなの口から出ることは、良くなかったことばかり。
だけれど講師曰く、「コロナで良かったこともあるはずです」と。
考えてみれば、
家族全員が家に居ることなんて、そうそう無いし、話す機会も増えてるし、
運動不足でみんなで犬の散歩など行ったり、
娘がキッチンで何か作ってくれるし・・・・・等々。
都内で開催しようとしていた勉強会もオンラインですることになったら、
東京以外からの出席も可能になったし。
今まで考えてもいなかった事が、普通に行われるように変わっている。
例えば、上記のオンラインでの歌声。
自分が出来ることで、誰かのために、そんな行いが人々に広まっている。
あまりにも開発開発、進歩進歩で世の中が進んできたけれど、ここでもう一度立ち止まり、
本当に大切なものは何かを考え直しても良いのではないだろうか。
先日言われたのだった。
「大切な人と会っておきなさい。会えなければ話しておきなさい。手紙でも良いから」と。
この際だから、みんなでやろう!
大切な人に「元気?」と声をかけよう。(会えないからね)
きっとそんな相手を思う気持ちが、コロナに打ち勝つ波動になるだろうと。
「ありがとう」「愛している」と伝えよう。
今年に入ってから2020年は激動の年になると、色々なところで聞いてはいたが、まさか、こんなことになろうとは。
2011年の時もそう思ったっけ。まさかこんなことが起こるとはと。
今や世界中がコロナウィルスで大変なことになっている。
昨日も友人の友人が亡くなったと伝わってきた。 だんだん外堀から内堀へ忍び寄ってきているみたいな。
だからこそ、今私にできることは何かを考えた。
そこで世界中にエールを送ろうと思った。
幸い、趣旨に賛同してくれた音楽仲間たちとで「演奏でつなぐImagine」イマジンプロジェクトを作成してみた。
Imagine project 2020 演奏で繋ぐimagine イマジンプロジェクト2020
違う国に居ても、みんな心は寄り添える。 少しでも悲しみから抜け出してほしい。
ハグは出来なくても、心は寄せられる。
みんなで頑張ろう!
コメント
久しぶりに土日を家で過ごしています。
昨日は朝5時半に起きて犬と一緒に散歩に。
町がまだ眠りから覚めていない、空気が凛としてさわやかで、音もない静寂な中を歩くのってすごく幸せな感覚になります。
今朝は雨で、お散歩には行かれませんが、やはり音もなく、雨音だけが聞こえてくるこの静寂さが大好き。
昨日は縁あって、『月の暦』のカレンダーを手に入れてしまいました。
1か月は28日で、1年は13か月に分かれています。マヤ暦を元にしているとか。
一日一日にメッセージがあって、なんか面白いことになりそう。
女性の生理周期も本来は28日だし、皮膚のターンオーバーも28日だし、人間の体は宇宙のリズムで出来ているのかもしれません。いや、本来そうであるのを、現代人はそれを無理やりグレゴリオ暦に合わせているので、便利だけどもいつも時間に追われているような感覚で生きているのかもしれません。
宇宙のリズムと調和して生きる新しい時間の発見。
昨日はそんなワクワクした一日でした。
『宇宙のリズムに合わせて自然体に生きる』、今この時期、私が求めていたものかもしれません。
求めていたものの糸口が見つかる、ヒントが見つかるって、なんかこう、ワクワクするこの高揚感。
しばし、今日一日は楽しい日になりそうです。
今日から新しい年が始まった。
巷は大晦日の「ゆく年くる年」のように大騒ぎ。
TVはどこのチャンネルもそのことばかりで少し辟易していたけど、
やはり、新しいことの始まりは素直に喜ぼうと思う。
この「令和」という新しい年は、大きく世の中が変わると言われている大事な節目らしい。
厳粛に受け止めて、これからの私たちの未来を精神的により豊かにおくれるよう祝福したい。
地球上のすべての人が、幸せに暮らせるように。
日本という国の本来の良さをもっと発揮できるように。
一人一人が自分の人生を見つめて正しく生きられるように。
今の私を見れば、「毎日幸せを感じて、好きなことが出来て、何の悩みもなく、楽しく暮らしている」と思われるだろう。
しかし、昭和、平成と生きてきて、ふと人生を振り返えったら、
涙でまくらを濡らした夜がどれだけあったか、
思い通りにいかない人生だとどれだけ嘆いたか、
こんなはずじゃなかったと何度思ったか、
親友たちが私より先に別の世界へ何人旅たったことか、
そんな悲しみや苦しみも山あり谷ありで過ごしてきたことが、懐かしく思い起こされてしまった。
でも私は生きている。
今新しい時代の幕開けに、私はしかと立っている。
この「喜び」を大いに感じて、これからの未来をより良く生きようと思う。
誰一人取り残されない平和な世界を作り上げる、ささやかながら、その担い手でありたいと願いながら。
今週の土曜日に「子どものためのチャリティーコンサート」を開催する。
有難いことに250席は満杯になった。
来てくださるお客様は、普段コンサートに中々行かれないような子ども達が主だ。
コンサートの題名は「ハクナマタタ」。
スワヒリ語で「なんでもOK、なんでも大丈夫、どんなことも問題ないよ」という意味だ。
キリマンジャロへ登っているとき、現地のガイドやポーターたちが私に向かって何度も言ってくれた言葉だ。「ハクナマタタ」
一緒に登ったガイドやポーターたちは、本当に温かい、優しい人ばかりだった。
お陰で私は無事に登頂できたし、登山を楽しんでくることが出来た。
彼らは、もちろんそれが仕事だが、私が登頂出来ることだけに集中してくれていた。
ビジネスライクではなく、人として温かかった。
「ハクナマタタ」は彼らがいつも私に、「ママ、ハクナマタタ!」と言ってくれていた言葉だ。
だから、コンサートにはどうしてもこの言葉を入れたかった。「ハクナマタタ」!
そう、私たちが行うコンサートは「ハクナマタタ」なのさ!
奇声を上げてもOK! じっと座っていられなくてもOK! 泣いてもOK!
普段、こんなことが気になって、シーンとした場所に連れて行かれない親御さんたちも、安心してね、「ハクナマタタ」だよ。
一緒に聴く人も、「ハクナマタタ」と温かく見守ってね。
人は他の人に「やさしく」すれば、自分にその「やさしさ」が返ってくる。
人は他の人に愛を注げば、自分に愛が返ってくる。
また、その逆もしかり。
「やさしく」されたから、誰かにも「やさしく」しようと。
「愛されている」から、私も誰かを「愛そう」と。
でも、本当は、
「やさしく」されていなくても、先ずは自分から誰かに「やさしく」してみよう。
「愛されていなく」ても、先ずは自分から誰かを「愛して」みよう。
これなんじゃないかな。
話がそれたが、今度のコンサートは、そんな温かい人ばかりで行っている。
愛があふれているコンサートだ。
当日の子ども達の笑顔が楽しみだ。
あなたもハッピー! 私もハッピー! みんながハッピー!!
先ほど挙げた、東京大学の入学式で、上野千鶴子氏が祝辞で最後に述べられたところ
『未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。
異文化を怖れる必要はありません。
人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。
あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。
大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。』
この最後のフレーズを読むたびに涙がウルウルしてくる。
そうなのよ、大学で学ぶ価値は、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身につけることなのよ。
そうなんだ、そうなんだと。
私が学生の時にこんなメッセージを頂いていたらと。
しかし、学生の時にもしこのようなメッセージを頂いていても、ピンとこなかっただろうなとも。
あの時は、すでにある知をいかに要領よく身につけて、大学卒業の証を頂き、社会に出ていくかだけしか考えていなかったから。
今だからこそ、今を意識して生きているからこそ、このメッセージが心に響いてくる。
私は今から大学に戻って再び学ぼうとは思わないけど、(それより社会の方が面白いから)多くの友人たちは50歳を過ぎても再び学舎に戻っている。その学びたい欲求はよく分かる。
今だからこそ、真剣に学べる。
あくことなき好奇心、これは私にもまけないくらいある。この好奇心のもとに毎日を突き進んでいる。
それだけで人生は十分楽しい。
未知を求める気持ちは死ぬまでなくならないだろうと。笑
平成31年東京大学学部入学式で上野千鶴子先生が述べられた祝辞があまりにも素晴らしかったので記憶の為に掲載しておこうと思う。
ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。
女子学生の置かれている現実
その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。
女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。
事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。
第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。
第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。
最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。
そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。
女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。
東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。
東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月に東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等の理念に反すると警告を発しました。
これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。
学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員の女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。
女性学のパイオニアとして
こういうことを研究する学問が40年前に生まれました。女性学という学問です。のちにジェンダー研究と呼ばれるようになりました。私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました。
女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。
女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンやタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?日本の歴史に同性愛者はいたの?...誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でもセクシュアリティの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。
学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学、障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。
変化と多様性に拓かれた大学
言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授、姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。
あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。
そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
東京大学で学ぶ価値
あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。
これまであなた方は正解のある知を求めてきました。
これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。
学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。
未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。
異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。
あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。
大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。
知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。