Home sweet home.
サウス・サンフランシスコへ帰る途中で Amrine さんが Hinman さんからのメモをくれました。
「明日の朝、8:00に迎えに行く」そうだ!明日からキャンプ場のアルバイトです。
今までのように毎日ブラブラしていたのでは、メキシコへ行くどころか、アメリカでの滞在も難しくなります。
Amrine さんにも、どんな事でも私に出来るようなアルバイトがあればよろしく、とお願い。
「きっと何か有ると思うよ」と嬉しいお言葉。
私のビザでは就労が認められていませんから、口コミでのアルバイト探しに頼るしか有りません。
幸い当面はロジャーさん一家やトムに助けてもらって、ネグラの心配はないものの、何時までも、無為徒食の厄介者ではあまりにも気兼ねです。
言葉の充分通じる日本でも、自立出来ていない脛齧りの学生が、覚束ない会話の能力で、果たして何処まで出来るのか。
とにかく、やれるだけやってみるしかありません。
ブレントウッドから住宅地に入ると、何となく安心感を感じます。
家に着くと皆んな揃って迎えてくれました。
メープルシロップと紅ショウガのお土産を渡しました。
紅ショウガは少しずつ味をきいて「ム~・・、不思議な味・・。」
「サラダに使えそうね」
「クッキーに入れると美味しいかなぁ」
紅ショウガクッキーなんて聞いたことが無いけれど、意外に美味しいかもしれませんね。
ロジャーはお気に入りのチーズに載せて「これはイケル!」
日本人は紅ショウガといえば決まりきった食べ方しかしませんが、先入観が無いというのは面白いですね。
即、お気に入りの例のオリーブが入ったカクテルを作って来ました。
「あなた、今日の分はさっきもう飲んだでしょ!」
「息子が帰ってきたお祝いだから、今日は特別」
と私にウインク、エフィは仕方が無いといった仕草。
嬉しいなぁ、本当に家に帰ってきたという気がします。
「カナダはどうだった?」
「面白かったです、やはりアメリカと少し違いますね」
「寒くなかった?」
「少し寒かったです」
「他の皆んなは日本に帰ったの?」
「ええ、シアトルから、そろそろ日本に着いてるのかな?」
「明日は何時?」
「8時です」 「それなら、ゆっくりじゃないの」
エーッ!本人は結構目まぐるしいと思ってるんですが。
「決められたプランから飛び出して、自分でやりたい事を実現しようとしているのはステキよ。ロジャーもエフィも貴方を誇りに思ってるわ」
って、急に改まってそう言う事をいわれると、ジーンと胸に迫って困ってしまいます。
それも、まさかそんな事を言いそうに無いコラリアに、真面目な顔で言われるとどうしてよいのやら。
実はそれは買被りが過ぎると言う物、何をどうするというはっきりした目的が有るで無し。
ただ我侭なだけで、やりたい事と言っても、行った事がないところに行って見たいという、子供っぽい思い付きから出発しているんです。
さてこれから、期待を裏切らずにやって行けるかどうか、全く自信が有りません。
コラリアと話していても「到底敵わないなぁ」という大人びたところと、意外に子供っぽいところが有って、最初は戸惑いました。
ところが日が経つにつれて、コラリアだけでなく、知り合った人々の皆が皆んな、何処かしら大人の顔の中に、悪戯っぽい子供の顔を残している人が多いのに気付きました。
子供と遊ぶ時などは、ホントに同じ目線で一生懸命遊ぶんですね。
大人同士でも、時によっては子供っぽい悪戯や、遊びを大真面目でするんです。
こういう大人が居るというのは驚きです。
自分の力で何かをやろうとしているのを見ると、手助けせずに居れない、というのは、これまでの短い期間で、私の知り合った人々の共通した姿勢のように思います。
それも例えば「お金を上げる」「連れて行く」とかの直接的な方法ではなくて、自力で頑張るのを側面から支えるという方向の助けかたなのです。
小さな子供達が、レモネードを売ったり、何か一寸した事でお金を稼ぐのを大人が優しく見守っているんですね。
私の知る限りでは、子供達は自分の家のお手伝いをした場合、お金を貰っていないようです。
それは「家族の一員としての、当然の義務を果たしている」という発想なんでしょうね。
日本で、子供をお金で釣って家の手伝いをさせたり、点数がよければ小遣いを上げるなどといって、勉強をさせたりするのは、お金に対する間違った認識を大人が植付けているような気がします。
そして、小さい子供でも独立した人格として扱うという気分があるように思えます。
子供だからといってウヤムヤにしないのは一見厳しいようですが、何でもかんでも「子供のした事」で許される日本とどちらが良いのか?
「働いてお金を稼ぐ事は立派な事で、機会が有れば年齢に拘わらずドンドン経験すべきだ。そして大人はお金を稼ぐルールを教え、正しい労働の喜びと、努力すれば必ず報われる事を教えなければならない。」というのがベースに有るように思えるんです。
日本でよく聞く「あんまりお金の事を言うと汚い」などというセリフは、此処では通用しないのでしょうね。
「そうか、それがアメリカの価値観の1つの側面なのか!」と勝手に納得していますが、実は違うのかも知れませんね。
よく言われる「丸太小屋からホワイトハウスへ」とか、
家柄や財産のない人が、徒手空拳、努力の末に大金持ちになったという話がもてはやされるのは、誰にでもその可能性がある国だからなんでしょうね。
独立独歩、自立する事、若しくは、それに向かって努力する事が評価されるんですね。
正直、勤勉、努力、勇気、愛、評価されるべき事は非常に明快で、カラッとしています。
そう言えば、学習塾などは全く見当たりません。
小学校などは全く宿題が無いそうです。
近所の子供も、他所のお宅の芝生の手入や、犬洗い、一寸した手伝いでお小遣いを稼ぎ、親達もそれを奨励しているようなところが有ります。
マルチネスさんが夜、夫婦で出かけるときに、斜めお向かいの娘さん(高校生くらい)をベビーシッターに雇ったんです。
日本では無償であればともかく、ご近所の娘さんを子守りにお金を払って雇うというような事は、失礼だとか、何だとかいって、まず無いだろうなぁ、と思ったんですが、労働と報酬への感覚がハッキリしているから出来るんですね。
もう1つ驚いたのは Public(公共?それとも概念としての公?)の重さ。
これは日本とは全く比較になりません。
「公共の場所だからゴミを散らかす、誰も片付けない」という日本に反して、
「公共の場所だから綺麗にしなければならない、気が付いたら片付けるのは当然」という正反対の考え。
そして、親だけでなく、子供に公共の場所や物を大事にするように厳しく躾る廻りの大人たち。
Public 全般への義務と責任に対する、厳しすぎるほどの自覚。
これらは、新興の住宅地だから特に目立つのかも知れませんが、Public への意識がこの雑多な人種が集まった国を纏めている力の1つのように感じます。
そして、国と個人の関係というか、祖国に対する認識。
私などは、「たまたまそこで生まれたから日本が祖国だ」という意識で、多分に出たとこ勝負、お仕着せ的で、祖国という物を改めて考えた事はなかったように思います。
ところが、移民でも一世が多い此処の街では「自分が祖国として選んだ国」という考え方が強いみたいですね。
コラリアなどの二世でもギリシャとアメリカどちらを選ぶか本人の意思で決めたんだそうです。
もっとも、彼女の場合は、父親が依然としてギリシャ国籍だったから、どちらかを選ぶことになったのでしょうが、国民の内、相当の割合で自分の意志でアメリカを祖国に選んだ人が居るんですね。
アメリカ国籍を選んだからといって、民族の伝統を投げ捨てないで大事に守ろうとしている人たちが多いのにも感心します。
だから、人種と国籍、国と個人というのに対する考え方が、成り行きで決まったように思っている私なんかとは全く違うんです。
これでは、国に対する義務という考えの上で、日本人と大きな違いが有るのも無理は無いと思います。
1人1人が集まって国が出来ている、国は国民の為に在るので、国民は国の為に有るのではない。
文字通りの合衆国、This Land is my land!という意識が有るんですね。
人種出身が違えば風俗習慣の違うのは当たり前、共通しているのはアメリカを祖国に選んだと言う事での同報意識が有るような気がします。
だからと言って差別が無いなどとは思っていません。
ほんの一寸だけ覗いた、共和党の大統領予備選挙のキャンペーン会場の周辺で人種差別反対の活動をしている人々を見かけました。
会場内のお祭りムードとは全く違う、真剣な追い詰められたあの人たちの表情のを見れば、その根の深さ、深刻さは窺い知る事が出来ます。
ただ、先住民であるRed Skin(Native American)や、自分の意志に関係なく連れて来られた、いわゆる黒人はこの町にただ1人も住んでいませんし、たまたまグレイ・ハウンドで乗り合わせた位で、言葉を交わした事も無く、全く接触していないのです。
そして、ゲストとして滞在しているのと、自分たちの競争相手としての東洋人、とではかなり対応に違いがあるだろう事も予想できます。
何れ、そういうColored(有色人種)に対する差別を、肌で感じる事になるのかも知れません。
しかし、根底に流れているのは
「誰でも努力すれば成功できる可能性がある」
「国、社会に何かをして貰うのではなく、国、社会に自分はどう貢献できるか」
「明日は必ず今日よりも良い日に違いない」 などの言葉に息ずいている精神。
そして、陽光の元に掲げられたように明快な「正義、自由、愛」を善と信じる人々の国だと信じたいのです。
複雑で陰湿な石造りの薄暗い部屋の小さな窓から、冷え冷えとした景色を眺めて、眉間に皺をよせて策略を巡らせているよりも、明るい太陽の下で、腕まくりをして働いているような国であって欲しいのです。
大きな大きなアメリカの、何万分の1にもならないような狭い社会で感じた事が、何処まで通用するのか?
あまりにも巨大、複雑なこの国を理解する事など到底出来そうに有りません。
それならば、自分の見えるところ、手が触れるところだけでも確り覚えておこう。
どれだけ小さな部分でも、それも間違いなくアメリカの一部に違いはないはずです。
絵の具を全部混ぜると汚い色になってしまいますが、夫々の色を守ってモザイクのように使えば美しい色が描けます。
自分の色を大事にする事で、他の色を引き立てて、綺麗なモザイクが出来る。
そういう国を目指しているんでしょうね。
当然、大きな国で雑多な民族が混合していると、軋轢が生まれ、反感や憎しみ、排斥や差別が存在する事は避けられないでしょう。
それでも、国としては「融合による同一化」よりも「混合による調和」を選択しているように見えます。
それに反して、日本は無理にでも、1つに溶かし込もうとする傾向があるように思います。
しかし、ちょっとお腹が空いたなぁ。
コラリアに合図して、キッチンを探検に行くか、
2003/05/27:初出
2022/05/31:再録
44-残留2日目-01-U.S.A.1964-No.44(8/1) へ
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