自分がただ、自分で居ることを決める。
自分以外のなにものにもならない。
安定した状態。
どんな状況でも、どんな相手でも。
達観、俯瞰というのかもしれない。
裏返せば、無条件に相手を受け容れてる状態とも被る。
すぐ離れてしまう自分。
取り繕う自分。
…それも卒業するって決める。
そして、自分でただ、居て、
その感覚に入ってきたことを取り入れてみる。
自分が心地よいと観じる空気感を拡げてく。
その軸に居て、その感覚を共有してく。
どんなに豊かで幸せなんだろ、って観じる。
ありがたいな、。
自分がただ、自分で居ることを決める。
自分以外のなにものにもならない。
安定した状態。
どんな状況でも、どんな相手でも。
達観、俯瞰というのかもしれない。
裏返せば、無条件に相手を受け容れてる状態とも被る。
すぐ離れてしまう自分。
取り繕う自分。
…それも卒業するって決める。
そして、自分でただ、居て、
その感覚に入ってきたことを取り入れてみる。
自分が心地よいと観じる空気感を拡げてく。
その軸に居て、その感覚を共有してく。
どんなに豊かで幸せなんだろ、って観じる。
ありがたいな、。
アートの話、していた。
何のためにアートかいてるのか…。
人に評価されるため?
アーティストなら売上のため?
テーマは?
何のために生きてるのか?
それに紐付く…何のために描いてるのか?じゃ、今、自分の目の前に突きつけられている自らの
テーマは何なのか?
私、、今のテーマは、自分で居ること。
私はそう在る自分で居るために、その振動波をペンから
ノートに映し出す。
描いてるときも念じるように描く。
描き終わるまで一心に念じて落とし続ける。
描きながら散漫になるときはぶれる。
描き終わって振動波観じる。
ぶれたらぶれたなりの振動波。
それもまたしかり。
観じられるのもありがたい。
ペンは中性子(調和)、紙は陽子(愛)らしい。
それもなんだか妙におさまりがよく、感覚的にしっくりする。
自分で居さえすれば、それに対して誰がどう評価されようとも気にならないように観じる。
きっと。。
自分以上のことをちょっと背伸びして、何かのため、誰かのため、
とかかこつけてやってたりする、
そこに対して槍が入るのが、きっと皆反応してるとこなんだろな。
自分で100%居たら、自分のどうしようもなさ、不甲斐なさ、
嫌というほどわかるから、だからそれは仕方ないって。
よし、改めてそうある自分になるのみ!
そして、
今日観じたのは。
アートでも何でも、何のためにってのは一緒だな、って。
顕在意識でこたえの出せる ”何のため” とは違う。
自分の生活と密着して、もの探しをしてゆく。
そこから何かきっと繋がってく。。