自分のなかで、理屈抜きに観じる感覚。
なにかをみて観じること、
誰かから観じること、、
みんな誰しも自分の感覚としてうけとってる。
それをどこまで自分が信頼するか、
どこまで真正面からその感覚に向き合ってゆくか。
それによって、より深く、より繊細な感覚でうけとれるように自覚してゆけるように観じる。
だんだん、だんだん精妙に細かく繊細に。
誰に共鳴されなくとも、自分のなかでは確信できる感覚としてうけとれることもある。
精妙になればなるほど、
逆に、周りの“荒さ”も気になったりすることもある。
でも、
それはどこまでいっても自分へのメッセージと気づくしかない。
ひとつひとつ受けとめて、受け容れられる自分を創る。
“荒さ”に乱される自分は未だ未だ甘い!
自分ひとりで安定は楽。
修行のようなもの。
だけど、始まらない。
日常生活の価値観のまったく違う人たちのなかで、なににも振り乱されず、確固たるだけれどもとてつもなく精妙で繊細な感覚であり続ける。
それができて、はじめてそこから“還元”がはじまるのだと思う。
だとしたら、“還元”ってものすごく自然なことなんだと思うし、
それは雑多のなかでも這い上がるだけの意志と、その自分の日常の取り組みからしかないかな、って観じる。