ATOZism

作詞家 Makoto ATOZI ブログ

本当の喜び

2023-05-10 13:28:03 | ATOZism

 幼少期 青年期 老年期。人は人生で3つの季節を生きる。記憶を遡ればあまりにも早い。

 
 幼少期、青年期。人間は無知であってもいいのだと僕は思う。欲望もあっていいと思う。ただし、まわりの大人たちは生き方を見せる努力はしなければいけない。

 不殺生、非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪、清潔、満足、習修、学習、探究、信心。

 言葉で言えば簡単でも、これが達成できる人は、この現世に実際どれだけいるというのだろう。時代の潜在的傾向は真逆だ。経済社会で生きるなら、他者蹴落としの方法を教える世界。

 これだという生きる道を、できるだけ早くに見つけて追求した生命が、人生の後半に時間に恵まれることができる。
 
 この世界が、もしも心が生み出し、見せている幻想であるという半面を持つならば、あらゆることは叶えられる。潜在的にも非潜在的にも、心に自身の人生への攻撃性がない限り願ったように人は生きる。夢見と知覚と無限の三界の中で、僕たちは真理を知らずに流されるままにいる。

 僕は自分の一時的な成功体験に執着して、いつまでも変わらずに夢見、目覚め、無限という三界の夢見と目覚めに絡まってきた。

 そうして、ギリギリになって、自分のあまりにも巨大な執着、自我、エゴに気づき、区別分離の愚かさに気づき、おぼろげに見えるような真理にしがみつき、自分の生命といわれるものの行く末を見つめている。

 仕事も、恋愛も、早くに定めた生命ほどに、その道を続けなさいと天の恵みがある。愚かなほどに瞬間的な衝撃で悟る、のかもしれない。
 
 小さなラーメン屋さんがテレビ取材の重なりから客が8倍に増え、店主は60歳、さあ、全国チェーンにしましょう、事業を大きくしましょうと誘いの声がかかる。それを見極める時に、必要なことは何か。

 30歳の時に開いたラーメン屋さんが一気に人気店になり、店舗を増やし、増やし続け、歳を重ね、損益分岐点を下降、社内統制が見えなくなった時に必要な姿勢は何か。

 僕は30歳で与えられた奇跡にしがみつき、もっともっと、まだまだと欲張った。身体的、または物質的快楽を強烈に求めた時期もあった。そうして与えられるものを選別し、否定した。
 やがて、人生で本当に大切なものは何なのかということに気づき、時間にうろたえ、巻き返すために無駄な手ばかりを打ってきた。
 今はビッグチャンスを狙うのではなく、今あるもので、与えられているものを生かして、乗り越えてみようと堪えている。

 人は、今、ここに、目の前にあるするべきことに集中するなら、いつの日かきっとどんな不幸さえも乗り越えられるのだと思う。

 甘美、快楽への欲望が見えるはずのものを見えなくさせてしまう。
 この身体は心が具現化したもの。人生も同じく心が具現化したもの。
 それは自分ではなく、自分のものでもないのでしょう。それはきっと僕が思うには、共に歩む友のようなもの。
 それなのに僕たちの生き方に、ベールをかけてしまうものは何なのか。

 身体は物質としていつの日か枯れ朽ちてゆく。だけど心と魂は枯れたりはしない。傷つきも衰えもしない。そして、きっと、光明を得た時、身体は本当の喜びの源となる。この人生に本当の喜びを与えてくれる。
 

 夢見の中で目覚めながら生きるもの、または目覚めの中で真理を見抜くものだけが金本来の金細工の輝きを持つ。目覚めとはきっと正しく生きたいという願い。祈り。健やかさを目指す源泉。

 多くの人々は、このすごく短い一生で得る身体を人生を自分自身だと、唯一の生命のようなものだと思い込み生きている。そうして感覚的快楽への欲望から道を見失う人もいる。感覚的快楽を手放せた時、人生は新しいフェーズに入る。

 生命とは一体何なのか。人それぞれに人生の苦しみがあるとすれば、そこから抜け出すには何が必要なのか。

 心、意識、魂、無限の叡智、神、それはどのように一体なのか。

 この人生がまだ在る中で、残されている人生の中で、それを知ることはできるのだろうか。結果がどうであったとしても、僕は、その答えを知りたい。そうしてもしかしたら、もしかしたらと答えが明かされつつある日々の中で、人は人生の本当の喜びを知るのだと思う。

 マイノリティーな僕が、たとえこのようなことを書いて、心に響く人がほとんどいなかったとしても、これからも、メッセージを届け続けていくことを僕は自分の人生の使命とする。一つの面から見れば、身体も行為の結果もすべてを幻想と知って、追いかけることもなく。

Makoto ATOZI



最新の画像もっと見る

コメントを投稿