毎朝夕にマクドナルドへ行くことが多い。
徒歩で往復で1時間30分ほど。効果的な有酸素運動になる。
いつも120円のホットコーヒーをいただいて、Kindleにダウンロードしてある書籍を読む。
最近は店内に入ると宇多田ヒカルのAutomaticがBGMとして流れていて、お!っと思う。
時代感覚が1999年あたりへとフラッシュバックする。
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僕たちが何かを思考する時、僕たちの思考・意識は物質なのだという。
僕は音楽も一種の物質であると思う。かたちはないけれど。
Automaticのイントロを聴くと、あまりにものイントロ物質の濃密で芳醇な質量に心を持って行かれてしまう。
あの頃、国民的行事にようにもなったアルバムも購入して、とても嬉しかったあの感情。それも物質として蘇る。
物質にはエナジー、エネルギーが宿り、パワーある音楽には、パワーの理由がある。
ここ数年はまるでリスナーを攻撃するかのような音楽も多く、そのとき、僕は、ああ、現代はみんな自分をアーティスト側に置いているのだと感じる。
もしも受け取り側、リスナー側として聴いたなら苦しくなってしまうような音楽は多い。罵詈雑言を歌詞にするアーティストも増えた。
だけれど、それを自分を発信側の人間であるとして聴いたなら、音楽の意味はガラッと変わる。
攻撃をすることで防御しているということなのか、僕にはよくわからない。
国民総アーティスト志向時代。
AIの進化によりエナジーはどのようにカモフラージュされてしまうのか。
あの頃、僕は完全なる受け身のリスナーとしてAutomaticを聴いていた。
音楽が時代を変えてゆく姿に鳥肌を立てていた。
これからも自分が何かを描き出す時には、あの頃、音楽に、恋に、夢に、ときめいた気持ちをなくさずにいたい。
リスナーとして与えてもらった夢や希望やときめきを、音楽という本来素晴らしいエネルギーを持つ物体に向けて、世界を信じていたい。
エネルギーこそが、すべてを変えることのできる源泉。
感受性を守り抜きたい。
Makoto ATOZI
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