2017年12月私は旧中山道を浦和方面から大宮方面へ向かい、与野駅東口入口近くで案内板(中山道と六国見)を見た。
案内板には木曽路名所図会の記述が案内されている。
2024年07月17日ブログ(江戸時代の図書でみる中山道大宮 4)で私は木曽路名所図会のその部分(黄の囲み)を見た。
そこには大宮原について「野原の間三十町許あり 中程に立場の茶店ありこれを六国見といへるなり 僅か三十歩余の所より近国の高山見ゆる 富士 浅間 甲斐 武蔵 下野日光 上州伊香保 などあざやかに見えたり」と記述されていると思った。
案内板(中山道と六国見)には右下に『木曾街道六拾九次 浦和宿』の浮世絵がある。
さいたま市サイトから(浦和区)(地域情報)(文化の小径)(浦和区文化の小径マップ「上木崎界隈から見沼を歩く」)を開くと中山道と六国見についての案内がある。オンラインガイド中山道と六国見を拝見すると、この辺りを描いた絵として渓斎英泉の支蘇路ノ駅 浦和宿の浮世絵が案内されている。
平成15年発行『埼玉ふるさと散歩 さいたま市』には与野駅付近がイラスト地図でこのように案内されている。 “ 英泉が「浦和宿」で描いたのは高台橋あたりと云われている ” と記述されている。
ウィキペディア浦和宿に掲載されている『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』を見る。[注釈 1][注釈 2]を見る。
浮世絵を描いた場所について “ 蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である ” と記述されている。ウィキペディア浦和宿の焼米坂の解説には焼米坂手前を視点としたと記述されている。
浦和区文化の小径マップの「六国見あたり」および『埼玉ふるさと散歩 さいたま市』の「高台橋あたり」とは一致していない。
宝暦6年(1756)制作された岐蘇路安見絵図で浦和から針ヶ谷村までを見る。
道の両側に家屋が並んでいるところは宿場だと思うが、案内文は「夏はれたる時は浅間山見ゆる」と書かれていると思う。そこから北方面は「榎二」「榎三」だと思う。そこは一里塚で北へ向かって右側の一里塚は榎が二本、左側の一里塚は榎が三本あったのだと思う。浦和宿から浅間山がよく見えたということはこの絵図からもそうだと思う。
ウィキペディア浦和宿にあるように焼米坂手前を視点とした場合、浅間山の方向は焼米坂(浦和坂)の高台が邪魔をして視界が悪かったように思う。
[注釈 2]には焼き米売りの茶屋を過ぎて “ さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める ” と記述されているのだが、ここに描かれたような川(水路)はどこの川なのか見当が付かないのである。
そんな訳で私は『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』の浮世絵は焼米坂手前を視点として描かれたという説には疑問を持っている。
岐蘇路安見絵図で針ヶ谷村から大宮氷川参道の分岐点までを見る。
針ヶ谷村の入口付近の案内文は「空はれたる時は富士山見ゆる」だと思う。
その左(北)の案内文は「大宮原の間 三十丁計(ばかり)あり 中程茶屋あり 立場なり」だと思う。
中山道分間延絵図で上木崎村を見る。北を見ると中山道と交差する川があり(青で示す)、橋が架かっている。
その川の北方面を中山道分間延絵図で見ると大宮氷川神社参道の分岐点(黄で示す)がある。
この辺りを明治の迅速測図で見る。
中山道と大宮氷川神社参道の分岐点の南を流れる川を青で示す。
この川は高沼用水路だと思う。高沼用水路に架かる中山道の橋は現在の高台橋だと思う。
2017年4月高台橋の下流側から上流側を見た。
2013年1月さいたま新都心駅ホームから東の旧中山道高台橋を見た。
中山道分間延絵図の上木崎村を拡大する。絵図には案内の文字が書かれているのだが、鮮明ではない。別の資料も参照して案内文字の横に赤で加筆してみた。想像で加筆したところもあるので原文と違っている文字があるかも知れない。
立場と加筆したところで赤山道と中山道が合流する。
マピオン地図に赤山道と旧中山道が合流するところを赤で示す。
2010年10月旧中山道の西側から赤山道を見た。
木曽路名所図会には “ 野原の間三十町許あり 中程に立場の茶店ありこれを六国見といへるなり ” と記述されていた。
渓斎英泉の木曾街道六拾九次 浦和宿の浮世絵を中山道と赤山道が合流した辺りを視点にして描いたと仮定すると、前方に見える橋は高沼用水路に架かる橋ということになると思う。大田南畝の壬戌紀行にはその橋を渡ったと思われる記述がある。そこには “ 土橋をわたり(堰のごとし) ” と書かれている。浮世絵に描かれた橋が土橋かどうかはわからないが、堰のようには見えない。
渓斎英泉の木曾街道を描いた浮世絵は一定の場所から風景を写生したというものではないと思う。描いた場所を特定しようと思うのはあまり意味がないかもしれない。
平成5年浦和市発行『図説浦和のあゆみ』には木曾街道六十九次の浦和宿の浮世絵についてこのように案内されている。描かれた茶店がどこなのか触れられていない。
案内板には木曽路名所図会の記述が案内されている。
2024年07月17日ブログ(江戸時代の図書でみる中山道大宮 4)で私は木曽路名所図会のその部分(黄の囲み)を見た。
そこには大宮原について「野原の間三十町許あり 中程に立場の茶店ありこれを六国見といへるなり 僅か三十歩余の所より近国の高山見ゆる 富士 浅間 甲斐 武蔵 下野日光 上州伊香保 などあざやかに見えたり」と記述されていると思った。
案内板(中山道と六国見)には右下に『木曾街道六拾九次 浦和宿』の浮世絵がある。
さいたま市サイトから(浦和区)(地域情報)(文化の小径)(浦和区文化の小径マップ「上木崎界隈から見沼を歩く」)を開くと中山道と六国見についての案内がある。オンラインガイド中山道と六国見を拝見すると、この辺りを描いた絵として渓斎英泉の支蘇路ノ駅 浦和宿の浮世絵が案内されている。
平成15年発行『埼玉ふるさと散歩 さいたま市』には与野駅付近がイラスト地図でこのように案内されている。 “ 英泉が「浦和宿」で描いたのは高台橋あたりと云われている ” と記述されている。
ウィキペディア浦和宿に掲載されている『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』を見る。[注釈 1][注釈 2]を見る。
浮世絵を描いた場所について “ 蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である ” と記述されている。ウィキペディア浦和宿の焼米坂の解説には焼米坂手前を視点としたと記述されている。
浦和区文化の小径マップの「六国見あたり」および『埼玉ふるさと散歩 さいたま市』の「高台橋あたり」とは一致していない。
宝暦6年(1756)制作された岐蘇路安見絵図で浦和から針ヶ谷村までを見る。
道の両側に家屋が並んでいるところは宿場だと思うが、案内文は「夏はれたる時は浅間山見ゆる」と書かれていると思う。そこから北方面は「榎二」「榎三」だと思う。そこは一里塚で北へ向かって右側の一里塚は榎が二本、左側の一里塚は榎が三本あったのだと思う。浦和宿から浅間山がよく見えたということはこの絵図からもそうだと思う。
ウィキペディア浦和宿にあるように焼米坂手前を視点とした場合、浅間山の方向は焼米坂(浦和坂)の高台が邪魔をして視界が悪かったように思う。
[注釈 2]には焼き米売りの茶屋を過ぎて “ さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める ” と記述されているのだが、ここに描かれたような川(水路)はどこの川なのか見当が付かないのである。
そんな訳で私は『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』の浮世絵は焼米坂手前を視点として描かれたという説には疑問を持っている。
岐蘇路安見絵図で針ヶ谷村から大宮氷川参道の分岐点までを見る。
針ヶ谷村の入口付近の案内文は「空はれたる時は富士山見ゆる」だと思う。
その左(北)の案内文は「大宮原の間 三十丁計(ばかり)あり 中程茶屋あり 立場なり」だと思う。
中山道分間延絵図で上木崎村を見る。北を見ると中山道と交差する川があり(青で示す)、橋が架かっている。
その川の北方面を中山道分間延絵図で見ると大宮氷川神社参道の分岐点(黄で示す)がある。
この辺りを明治の迅速測図で見る。
中山道と大宮氷川神社参道の分岐点の南を流れる川を青で示す。
この川は高沼用水路だと思う。高沼用水路に架かる中山道の橋は現在の高台橋だと思う。
2017年4月高台橋の下流側から上流側を見た。
2013年1月さいたま新都心駅ホームから東の旧中山道高台橋を見た。
中山道分間延絵図の上木崎村を拡大する。絵図には案内の文字が書かれているのだが、鮮明ではない。別の資料も参照して案内文字の横に赤で加筆してみた。想像で加筆したところもあるので原文と違っている文字があるかも知れない。
立場と加筆したところで赤山道と中山道が合流する。
マピオン地図に赤山道と旧中山道が合流するところを赤で示す。
2010年10月旧中山道の西側から赤山道を見た。
木曽路名所図会には “ 野原の間三十町許あり 中程に立場の茶店ありこれを六国見といへるなり ” と記述されていた。
渓斎英泉の木曾街道六拾九次 浦和宿の浮世絵を中山道と赤山道が合流した辺りを視点にして描いたと仮定すると、前方に見える橋は高沼用水路に架かる橋ということになると思う。大田南畝の壬戌紀行にはその橋を渡ったと思われる記述がある。そこには “ 土橋をわたり(堰のごとし) ” と書かれている。浮世絵に描かれた橋が土橋かどうかはわからないが、堰のようには見えない。
渓斎英泉の木曾街道を描いた浮世絵は一定の場所から風景を写生したというものではないと思う。描いた場所を特定しようと思うのはあまり意味がないかもしれない。
平成5年浦和市発行『図説浦和のあゆみ』には木曾街道六十九次の浦和宿の浮世絵についてこのように案内されている。描かれた茶店がどこなのか触れられていない。