咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

江戸時代「六国見」と呼ばれた所 (中)

2025年01月05日 | 日記
川口市教育委員会発行『赤山街道総合調査報告書Ⅰ 大宮道をたどる』には中山道と赤山道が合流する辺りの解説としてこのように記述されている。
前回のブログで中山道と赤山道が合流するところをマピオン地図に赤で示した。
栄泉の木曾街道大宮宿富士遠景を見る
ウィキペディア木曽海道六十九次によれば、4番が浦和宿、5番が大宮宿である。浦和宿の浮世絵は前回ブログで取り上げた。
昭和63年大宮市立博物館発行『わたしたちの博物館 第15号』には木曽街道大宮宿富士遠景についてこのように解説されている。ここには “ 北袋あたりの風景を思い出す ” とある。
ウィキペディア大宮宿に掲載されている『木曾街道 大宮宿 冨士遠景』を見る。その浮世絵の解説を見ると “ この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔あたりの、かつての様子である ” と記述されている。
岐蘇路安見絵図で針ヶ谷村から大宮氷川参道の分岐点までを見ると針ヶ谷村の入口付近の案内文は「空はれたる時は富士山見ゆる」と書かれていると思う。
木曽路名所図会で大宮原の左を見ると針ヶ谷村が案内されており黄で囲む。案内文は「右に落合村あり此所よりも雲晴たる時は富士峯見ゆる」だと思う。
江戸時代針ヶ谷村から見た富士山は美しかったのだと思う。
大宮原はその距離が三十町程あったというから針ヶ谷村も大宮原の一部だったと思う。

ウィキペディア大宮宿の浮世絵の解説は大橋陸橋交差点の庚申塔について触れられている。
大橋陸橋とあるが大原陸橋のことだと思う。マピオン地図に大原陸橋と旧中山道の交差点を赤丸で示す。
2016年8月その交差点で大原陸橋を見た。

庚申塔は黄丸で示したところに建立されている。
2010年3月大原陸橋(東)交差点の西南角から庚申塔を見た。
近付いて見た。

縦位置でさらに近付いた。右側面を見た。「正徳四甲午歳正月…」と刻まれていると思う。正徳四年は1714年。
ウィキペディア大宮宿の浮世絵の解説には「左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔」とあるのだが、浮世絵を見ると文字庚申塔で像は彫られていない。大原陸橋下の庚申塔は青面金剛像が彫られている。
浮世絵の庚申塔は大原陸橋下の庚申塔を描いたものではないと思う。
さらに浮世絵の解説には「右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている」とある。画面右から富士山の方向へ延びる土手道は大宮宿を過ぎて京都へ向かう中山道だと言っている。私にはそう見えない。
私は庚申塔が建っているのは中山道で左が江戸で右が京都だと思う。富士山の方向へ延びる道は次の交差点を左折して西へ延びる道だと思う。イメージはこのようである。

明治18年頃の地図で中山道と赤山街道が交差する辺りを見る。
中山道を黄で示す。
赤山街道を赤で示す。
私は木曽街道大宮宿富士遠景の浮世絵が六国見付近で描かれたものだとしたら、赤丸で示した交差点がイメージ図の赤丸の交差点だと思う。

前回ブログで中山道分間延絵図の上木崎村辺りの案内文字を加筆してみた。この絵図の左(大宮方面)を見ると赤山街道与野方面への分岐点かと思われるところがあり赤で示す。分岐点から西へ延びる道は与野町道三拾丁と案内されているのではないかと思う。「与野町道」は合っていると思うが「三拾丁」は<拾>の文字がよくわからないので推測で加筆した。

明治18年頃の地図に赤で示した道(赤山街道)を現在の地図(ゼンリン地図)に描くと概ねこのようになると思う。
赤丸で示した交差点の東南で旧中山道の西を見た。

この交差点は新都心大橋と立体交差になっているのだが、江戸時代の赤山街道はこの辺りから西へ分岐して延びていったと思う。江戸時代中山道の西は高台になっていたと思われ、中山道から西へ延びる赤山街道は上り坂だったと思う。イメージ図に示したように木曽街道大宮宿富士遠景のこの道は上り坂である。

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