ウィキペディア大宮宿に掲載されている『木曾街道 大宮宿 冨士遠景』を見る。
昨日のブログでその浮世絵の解説を見た。そこには “ この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔あたりの、かつての様子である ” と記述されていたのだが、#東大成の庚申塔をクリックするとウィキペディア大宮宿の東大成の庚申塔に飛んだ。ここには木曾街道 大宮宿 冨士遠景の風景は “ 東大成の庚申塔近辺である ” と記述されている。
「針ヶ谷の庚申塔付近説」と「東大成の庚申塔付近説」の2説があるということだと思う。
2020年2月私は赤い鳥居の前でカメラを左に振って東大成の庚申塔案内板を見た。
正面から見た。小堂に祀られた庚申塔を見た。
近付いて見た。
昭和52年発行秋山喜久夫著『中山道大宮宿』に掲載の中山道大宮宿麁絵図面には木曽路名所図会の大宮原六国見の案内文を紹介したのに続き(この六国見ヶ原には、大宮・土呂境説、大宮・上尾境説もある。ともに六国の山々の見える原だったのであろう)と書かれている。
平成2年発行『GUIDE BOOK 大宮をあるくⅢ ~川と街道~』には六国見ヶ原についてこのように記述されている。裏参道から大宮公園辺りを六国見ヶ原といっていたようである。
明治43年実業新聞社出版『大宮案内』にはこのように記述されている。
土手宿と大砂土村の間に六国見ヶ原はあったようである。昭和4年頃の地図で土手宿と大砂土村を見る。
ウィキペディア大宮宿には東大成の庚申塔付近は丹沢山地と富士山の眺望が素晴らしかったとあった。東大成のこの辺りも六国見ヶ原(大宮・上尾境説)と呼ばれていたかもしれない。
木曽路名所図会には大宮原の中程に立場の茶店がありこれを六国見というと書かれていると思う。そこはわずか三十歩余の所だとある。「三十歩」は面積だと思うが面積変換一覧表では(1畝=30坪=30歩)とある。60畳の大広間がその面積になると思う。「大宮原の六国見」と「六国見ヶ原」はそれぞれ異なる場所だと思う。
「大宮原の六国見」は大宮原の中程にあった立場茶店の辺りだと思うが、本題ブログ(前)でその場所を中山道分間延絵図で見た。立場の文字を緑丸で示す。立場の左に鳥居が描かれ、そこは稲荷と表示されていると思う。
2013年1月私は与野駅改札口前で大原の大ケヤキが展示されているのを見た。
この部分を展示しているとのこと。
案内文(大原の大ケヤキ)を見た。 “ 浦和宿と大宮宿の一里塚のほぼ中間にあったので「半里塚のケヤキ」と伝承される ” とあり、さらに “ 街道の名所で「六国見の立場茶屋」の北隣の稲荷社のご神木として村人に大切にされ ” と案内されている。
2015年3月私は与野駅東口近くの大原稲荷社を訪れた。
境内で案内板を見た。大原稲荷社の案内板には “ 江戸期には、浦和新田(現上木崎2丁目、中山道西高通交差点付近)にありかって参道入口に大欅があった稲荷社である。明治初期現在地に移転した ” と記述されていた。
私は「六国見の立場茶屋」北隣の稲荷社は移転する前の大原稲荷社だと思う。参道入口の大欅というのは与野駅改札口前にあった案内文のご神木のことだと思う。
大原の大ケヤキが伐採される前(2010年3月)の写真。
伐採2日後の写真。
昨日のブログでその浮世絵の解説を見た。そこには “ この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔あたりの、かつての様子である ” と記述されていたのだが、#東大成の庚申塔をクリックするとウィキペディア大宮宿の東大成の庚申塔に飛んだ。ここには木曾街道 大宮宿 冨士遠景の風景は “ 東大成の庚申塔近辺である ” と記述されている。
「針ヶ谷の庚申塔付近説」と「東大成の庚申塔付近説」の2説があるということだと思う。
2020年2月私は赤い鳥居の前でカメラを左に振って東大成の庚申塔案内板を見た。
正面から見た。小堂に祀られた庚申塔を見た。
近付いて見た。
昭和52年発行秋山喜久夫著『中山道大宮宿』に掲載の中山道大宮宿麁絵図面には木曽路名所図会の大宮原六国見の案内文を紹介したのに続き(この六国見ヶ原には、大宮・土呂境説、大宮・上尾境説もある。ともに六国の山々の見える原だったのであろう)と書かれている。
平成2年発行『GUIDE BOOK 大宮をあるくⅢ ~川と街道~』には六国見ヶ原についてこのように記述されている。裏参道から大宮公園辺りを六国見ヶ原といっていたようである。
明治43年実業新聞社出版『大宮案内』にはこのように記述されている。
土手宿と大砂土村の間に六国見ヶ原はあったようである。昭和4年頃の地図で土手宿と大砂土村を見る。
ウィキペディア大宮宿には東大成の庚申塔付近は丹沢山地と富士山の眺望が素晴らしかったとあった。東大成のこの辺りも六国見ヶ原(大宮・上尾境説)と呼ばれていたかもしれない。
木曽路名所図会には大宮原の中程に立場の茶店がありこれを六国見というと書かれていると思う。そこはわずか三十歩余の所だとある。「三十歩」は面積だと思うが面積変換一覧表では(1畝=30坪=30歩)とある。60畳の大広間がその面積になると思う。「大宮原の六国見」と「六国見ヶ原」はそれぞれ異なる場所だと思う。
「大宮原の六国見」は大宮原の中程にあった立場茶店の辺りだと思うが、本題ブログ(前)でその場所を中山道分間延絵図で見た。立場の文字を緑丸で示す。立場の左に鳥居が描かれ、そこは稲荷と表示されていると思う。
2013年1月私は与野駅改札口前で大原の大ケヤキが展示されているのを見た。
この部分を展示しているとのこと。
案内文(大原の大ケヤキ)を見た。 “ 浦和宿と大宮宿の一里塚のほぼ中間にあったので「半里塚のケヤキ」と伝承される ” とあり、さらに “ 街道の名所で「六国見の立場茶屋」の北隣の稲荷社のご神木として村人に大切にされ ” と案内されている。
2015年3月私は与野駅東口近くの大原稲荷社を訪れた。
境内で案内板を見た。大原稲荷社の案内板には “ 江戸期には、浦和新田(現上木崎2丁目、中山道西高通交差点付近)にありかって参道入口に大欅があった稲荷社である。明治初期現在地に移転した ” と記述されていた。
私は「六国見の立場茶屋」北隣の稲荷社は移転する前の大原稲荷社だと思う。参道入口の大欅というのは与野駅改札口前にあった案内文のご神木のことだと思う。
大原の大ケヤキが伐採される前(2010年3月)の写真。
伐採2日後の写真。
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