四十九歳という実際の年齢は彼を相応ではなく、それ以上老けさせていた。
だが、周りが思うほど、本人はそれを気にしてはいないように見えた。
いや、そう、思わせていたのもしれない。
イーアン・レイドロウ、彼を知る人物は大抵が、ああ、あの教授ねと言った後、少し無言になる。
大学内では有名で知らない人間はいないだろうからだ。
生真面目で几帳面、礼儀正しくて厳しい性格、協調性は少し難有りかもしれないかもしれない。
変わり者で偏屈、でも大抵の場合、人間というものは歳を取ると、そんなものではないだろうか。
勿論、例外もあるかもしれないが。
彼の容貌が関係していることも原因の一つだろう、子供の頃に犬に噛まれた顔の左半分に大きな傷があるのだ。
自身が、これを気にしてはいなければ問題はないのだ。
初めて結婚で彼は顔の傷が妻に不快感を与えないかと不安を感じていた。
だが、数年後に離婚を経験して悟ったのは問題は顔の傷ではなく、自身にあるのだということだった。
マーガレット、妻だった女性がキスを好まないと知ったのは夜の生活を経て、しばらくしてからだった。
自分もだが、相手を不快にすることほど嫌な事はない。
だが、わかっていても、やってしまうのだ。
自分の講義の最中、反抗的な態度を見せた生徒に顔の傷をわざと見せつけるようにして注意をする。
相手の驚き、戸惑いと生徒自身が悪い事でもしたような表情を見せるとき、彼は自分が最低な人間のように感じてしまうのだ。
悪かったと思うのだが、自分がひどく人間らしく思えて彼は安心する。
彼の毎日は大学と自宅を往復することで大半が占められていた、静かで変わり映えないものだ、ときに自身が何か刺激が欲しいと思うことはあっても、そこに行き着く過程と労力を考えると億劫になってしまうのだ。
少し上等なワインとコーヒーを買い、自宅で本を読み、テレビを見る、流行のドラマはどれもが、同じ内容に思えてしまう。 少し前まで心理的、ホラー、オカルトなものが書店やテレビでも多かった。
だが、今は恋愛ものだ、正直なところつまらないというか興味がなかった、多分、今の自分に、生活に関係していないからだろう。
けれど、人生とは、ほんの少しの出来事が掛け違えたボタンのように起こってしまうことがある。
つまり、彼の見に起こったのは、そういうことなのだ。
静かな図書室での会話、その中に出てきた本のタイトルを偶然耳にして、彼は思わず耳を傾けた。
「まだ、戻ってきてないの、ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ」
決して流暢とは言えない英語り響き、思わず、そちらを見るとカウンターの司書と話している女生徒の後ろ姿が目に入った。
「とっくに期間は過ぎてるのよ、まったく、困ったものだわ」
司書の女性は憤慨したように怒っている、親しげな会話の様子から、その女生徒は以前から、その本を読みたいと思っていたのだろう。
「難有りだわね、エーリック先生様は、以前にもあったのよ」
司書の声が皮肉交じりに聞こえるのは決して気のせいではない。
そして、自分の顔、左半分の傷が醜く歪んだのも当然かもしれない。
。
カウンターから離れた女生徒がゆっくりと奥へと進んでいく、髪の色、体つきからして外国人、アジア、東洋人は小柄というが、それは随分と昔のことだ。
静かに隣に立ち、本を探している振りをしながら、本のタイトルを口にする。
「本を持ってる、私の書棚にね」
正直なところ、そんな事を何故、言い出したのか、自分でも驚いていた。
だが、こちらを見た女性の顔、その表情に後悔はしなかったというのが、正直な気持ちだった。
自宅のアパートまでの距離は長くはない、隣をわずかに遅れて歩く姿にわずかに苛立ちを感じた。
だが、途中で、もしかしてと気づいた、自分の歩調が速すぎるのだと。
ここは大学内ではない。
他人と外を歩くのは久しぶりで、その為だろうか、距離がつかめなかった。
ただ、歩いているだけだというのに、ほんの少し息を吸い込み、糸口を探す。
「先生の講義、受けたことがあります」
正直なところ驚いた、そうなのか、独り言のように呟きが聞こえたのだろう。
けれど車と人の声が、この瞬間だけ、何故か大きく響いた気がして、彼女の声がよく聞き取れなかった。
アパートに着いたが、彼女は部屋に入ろうとしない。
切れ切れの単語と表情に、ああ、そういうことかと、わずかながらに理解した。
遠慮、謙虚、それらは東洋人、特有のものなのだろうか。
「性的、迷惑行為を危惧しているなら不要だ、私は女性に対して興味がない、だからといって、同性愛者という訳でもない。
言い訳をしておけばよかったと。
そう思ったのは、随分と後になってからだった。