それは偶然だった、阿部は半年ぶりに日本に戻ってきた。
短く整えられた髪に軽く日焼けした肌、長年の海外生活のせいか、洗練された雰囲気なだが、着ているスーツも日本人らしい無難なものではなく、少し遊びの入ったデザインだ。
無造作に腕を組みながらベンチに座ったその仕草もだ。
仕事の基盤を、日本に移すためだ、出版業、本も最近は電子書籍が増えてきたが、紙の本の需要がなくなることはないことを改めて感じていた。
有名な作家の言葉を疑ったわけではないが、不安だった。
帰ってきてから会社立ち上げの準備で忙しかったが、やっと一息つける、今日は一日ゆっくりするぞと考えていた。
公園の側まで来たとき、少し休もうと思ってベンチを見つけた。
先客がいるが構わないだろうと、少し離れて腰掛ける。
すると男が、こちらを見た。
随分とくたびれた風体だ、髪も真っ白なので老人かと思ったが、そうではなかった。
「阿部くん、じゃないか。」
名前を呼ばれて驚いた、知り合いだろうかと相手の顔を凝視する。
だが、記憶にない、誰だ?
すると、男は村木だと名乗った。
村木、まさか、高校のときクラスメイトの顔を思い出した。
改めて顔を見ると確かに面影があった。
だが、高校のときの記憶の中の彼とは思えなかった。
まだ、そんな歳ではないだろうに着ている服もヨレヨレで背も曲がっている。
正直、どんな生活をしているのかと思ってしまった。
「今も小説、書いているのか。」
村木は首を振った。
「具合でも悪いのか、顔色がよくないぞ。」
村木は頷いた後、ぽつりと水樹が亡くなったと呟いた。
「水樹、誰だい。」
村木は答えなかった、もしかして妻だろうか。
(結婚していたのか)
「事故でね、もう随分と前だけど。」
亡くなったのか、だから、こんなに変わってしまったのか。
「彼女、水樹を預けたんだ。」
意味がわからなかった、水樹というのは奥さんだろう、水樹を預けたって、どういうことだろう。
「水樹の子供は水樹だよ、自分では育てられないから頼んだようだ、六郷って覚えているかい。」
ろくごう……高校時代のクラスメイトだよと言われてハッとした。
変わった名字の女がいたことは覚えていた。
それにしても妻の水樹は子供に自分と同じ名前をつけたのだろうか。
おかしくないかと思ってしまった。
「水樹は子供は産めない、小説だけ。愛してるのは、僕では頼りなかった、六郷に預けたのもわかる。」
その声は疲れきっているように思えた。
「小説を書くんだ、水樹は六郷も喜んでいた。」
話の内容が代わり阿部は少しだけ、ほっとした。
「本当か、実は今、出版の仕事をしているんだ、日本で腰を落ち着けようと思って。」
そうか、村木は笑った。
「水樹はいなくなった、六郷も、僕だけが蚊帳の外だ。」
「じゃあ、子供は、水樹って子はどうした、今どこに……」
「僕は、どうすればよかった。六郷は手放さい、水樹を、死んでもね……。」
それはどういう意味だ、だが、村木は笑うだけだ、阿部を見て情けないだろう自分は、そう言わんばかりだ。
「知っていれば六郷に預けるなんてしなかった、だが、水樹は僕を信じてくれなかったんだ、僕は置いていかれた……。」
「村木、お前の子供だろう、おかしいぞ。」
「水樹が、僕の子、そうだったら……。」
村木は黙りこんだ後、上を、空を見上げた。
「駄目だった、僕は勝てなかった、水樹に、六郷にも……」
「さっきから、あの女の名前ばかりだ、六郷が何だ?」
村木は微かに笑った。
「今でも信じられない、でも本当だった、勝てないと思った、君だって。」
男が阿部を見た。
「……僕は駄目だった。」
それが最後の言葉になるとは思わなかった。
あれから数日。
村木のことが気になった阿部はモヤモヤとしていた。
もしかして、村木は自分に何か伝えたかったのではないだろうか。
そんな事を思ってしまうのだ。
無理にでも聞くべきだったか、いや、あの様子では話さなかったかもしれない。
(六郷は……村木の娘に、いったい、何をした?)
(六郷が水樹(娘)を手放さなかったのは理由があるのか?)
答えが分からないまま、村木は消えてしまった。
新聞の訃報で知った阿部は驚いた。
あのとき自分は村木を助けるべきではなかったか、連絡先を渡しておけば。
だが、受け取ったとしても、あのときの村木は疲弊していた。
全てに疲れきっていた、そう。
(生きることも……)
だが、水樹(娘)は、まだどこかにいる筈だ。
(帰国したばかりの俺は、何も知らなかった。)
(ただ、日本に戻ってきただけ。ただ、新しい仕事を始めようと思っただけ。)
探そうと思った、村木の娘を。
彼の娘を、それが今の自分にできる唯一のことだとしたら。
阿部は決心した。
必ず、村木、水樹という娘を見つけ出すと。