名前を呼ばれて振り返るが、久しぶりと声をかけられて怪訝な顔つきになったのも無理はなかった、知り合いではない事は確かだ。
すると、その男は笑いながら尾崎、大学で一緒だった尾崎良子だよと笑いながら近づいてきた。
まさか、本当に、学生時代に仲の良かった友人、いや、それ以上だと思っていた相手だ。
あのとき、突然、大学を辞めると言い出したときは驚いた、理由を尋ねると、はっきりとした事を言わない、曖昧な口調で生活が苦しいとか、勉強はあまり好きではなかったとか、こんな話し方は、正直らしくないと思った。
何か、他の理由があるのではないかと思ったが、翌日から大学にも来ない、アパートを尋ねると引き払った後で忽然と姿を消してしまった。
彼女と仲の良かった女友達に話を聞こうとしても駄目だった。
良子なのか、尋ねると相手が笑った、そのことに男はほっとした。
「久しぶりの日本、昔の友人にも会えてほっとしたわ」
「友人、なのか、俺は」
そうだよと屈託なく笑う相手に男は呼びかけた。
「なんで話してくれなかったんだ」
「話すって、何を、終わったことだよ、随分と昔のことだよ、それに言えないでしょう」
男は首を振った。
短かったけど楽しかったよ、田舎から出てきて大学生活、バイト先とアパートの往復は大変だけど初めての事ばかりで楽しかったとオザキは笑いながら言った、あのときまではと。
「皆で楽しく飲み会なんて浮かれてた、田舎育ち、世間知らずの女なんて遊び相手、いやオモチャ以下だよ」
「良子、そんな言い方、やめてくれ」
「あんたは、とっくの昔に、結婚して子供ができて、幸せになったと、そう思ってたのに、違うんだね」
男は首を振り、幸せだと呟いた。
「尾崎良子に、やっと会えたんだ」
「いいや、女だった良子は、もういない、こうして会いに来たのは、邪魔しないでって、言いにきた、それだけだよ」
「あいつにか」
頷く相手に男は近づいた。
「俺にできることは」
「気をつけろって言ってあげたら、友達だろう」
自分の言葉は届かないのか、その場に膝をつく、そして地面に額を擦り付けると懇願するように男は叫んだ。
「今夜は遅くなる、終わったら飲み会、で、遅くなったら会社に泊まるかもしれないから、親父のこと頼む」
自分の言葉に妻は従順だ、少し、いや、微塵も疑っていない。
仕事で遅くなるのは本当だ、だが、その後の飲み会は会社の同僚、仲間とではなく、二人きりだ、本当の事、それに嘘を少し混ぜることで真実味が増すというものだ。
自分は学生の頃からモテていた、それは結婚した今でも変わらない、明らかに母親似なのだろう。
父親とは大違いだ、母が亡くなってから何年だ、新しく女を作って再婚でもすればいいのに父は今も独り身だ。
まだ、男じゃなくなる歳でもないのに、それほど母を愛していたということなのか、自分の妻と同じ、彼女も夫の俺一筋だ。
最近の風潮ではないが、浮気の一つぐらいと思う、だが。
(まあ、あいつに浮気する程の度量というか、ないな)
「お待たせしました」
待ち合わせの場所は公園のベンチだ、座っているとやってきたのは女性だった、オザキですと言われて男は驚いた。
「変装ですよ、それで協力してくれるんですよね」
「そのことだが、息子だぞ」
「あなたは、そう思ってます、本当に彼はあなたの息子だと」
友人に言われた言葉を、ここで、また聞かされるのかと男は女を見た。
「あなたは奥さんが亡くなって随分とたつのに、新しく恋人を作ることも、再婚もしない、そんな、あなたのことをを亡くなった妻を愛していたからだと世間は思うでしょうね、でも、本当は」
「不幸な女性の姿を見たいですか、ああ、違いますよ」
不思議そうな顔で自分を見る男に、わからないんですかとオザキはふと視線を逸らした。
男の表情がこわばるように固まった、誰の事を言っているか、わかったからだ。
「ばれないと思っているんですか、浮気、いいえ、謝れば許して貰えるなんて思っているんでしょう、そして隠れて、また繰り返す、でも疑心暗鬼になり
ながらも彼女は許すんでしょうね」
「そのときには」
説得して別れるように、その方が互いの為だ、だが、男の言葉を否定するように別れませんよと、オザキは言った。
「彼女は自分から言いません、別れるなんて絶対にです」
断言するような口調に子供ができないんです、知らなかったんですかと言われて男は唖然とした、そんなこと二人は一度も行った事はない。
言葉が出ない、返事ができないまま、無言になってしまった。
どれくらい時間がたったろう、そう思った時。
「ミサキさん、ですよね」
手招きをする視線の先を見て男は驚いた、息子の嫁、彼女がいたからだ。
「以前、同じ職場で働いて人でね、偶然、会ったんだよ、それでつい話しをしていたんだ」
まるで、言い訳をしているような気分だと思いながらソファーに座り新聞を広げるが、記事を見ているわけでも、読んでいる訳でもなかった。
「そうなんですか、あっ、お茶、入れましょうか」
いつもなら、にっこりと、それなのに今は背を向けたままだ、どんな顔をしているのか分からない事に不安を感じてしまう。
(顔を見せてくれ、笑っていて欲しいんだ)
協力してくれますよねと言われて、はっきりとは断れないまま、迷っている自分がいた。
先延ばしにして長引かせたたところで、オザキは仕返しをするのだろう、何をするのかわからない、だが、それで不幸になるのが自分だけではない、嫁の彼女だとしたら、あまりにも理不尽だと思ってしまう。
その夜、遅く帰ってきた息子に男は部屋に来るようにと声をかけた、聞きたい事があると。
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