伊地知は悩んでいた。
学生や子供相手ならクッキーやチョコなどでもいいのだろうが、この場合はどうだろう。
家入に渡してくれるように菓子でも渡せばいいのだろうか。
だが、自分が選んだ品を見てチョイスが悪い、センスがないと罵られたら普段から仕事のことだけでも胃に穴が開きそうなのに(泣いてしまうのは確実だ)
そうでなくても日々、削られるメンタルは、この数日で、かなりのものだ、鏡を見ると自分の青白い顔に沈んだ気分になってしまう。
「あっ、七海さん」
校舎から出てきた姿を見つけ、声をかけようとした伊地知だが、はっとした一人ではないのだ、七海の後ろから現れたのは女性だ、以前、保健室で出会った入り家の友人だ、慌てて伊地知は姿を隠した。
見てはいけない、そう思ったのだ。
「すみません」
七海の声が聞こえた、深々と女に頭を下げて謝罪をしている姿は普段の彼からは想像できなかった。
その日の夕方、医務室に向かった伊地知だったが、ドアの前に立ったし、そのとき何かを叩くような音、それに続いて家入の声が聞こえたからだ、怒鳴り声だ。
「どうしたんです、何が」
慌ててドアを開けると家入と七海がいた、だが、様子がおかしい。
「酔ってたら、ぶっ叩いてやりたいぐらいだ」
七海は頭を下げたが、顔を上げろと言う入家の顔は、伊地知も驚く程の形相だ。
「あたしに謝っても意味がない、昔のことをだって言われたなら、そのままにしておけばいい」
ほじくり返すな、家入の言葉に七海は言葉を続けようとした。
「そんな、うじうじした態度で頭を下げたら、引きずるのは向こうだってわからないか、まったく」
このとき、家入は初めて伊地知の存在に気づいたのか、何か用かという顔になった。
「暇か、伊地知」
「いえ、その、書類を届けにきたのですが」
「丁度良い、頼みたいことがある、これで昼飯を食べてこい」
入家は自分の財布から、一枚の札を取り出した、しかも五千円だ、あまりにも太っ腹だ、釣りはいらないと言われ(ええーっ)と伊地知は心の中で叫び声をあげた。
「正門で待ってる筈だ、あたしは用ができて行けないから、代わりに行ってくれ」
「代わり、ですか、あの」
「会ってるだろ、あたしの友人」
このとき、七海が伊地知に視線を移した、何故といいたげに。
「七海、しばらく医務室に来るのはやめてくれ、口では気にしてないと言っても、それは建前だ、悪く言われたら、妻なら尚更、いい気はしない」
「家入さん」
「あんたにとっては死んだ人間でも、友人にとっては夫だ、今でもね」
「いいんですよ、医療関係の仕事ですから大変ですよね」
かけうどんを頼んだのは家入の金だからだ、といっても普段の自分も天ぷらや値の張る物は食べないのだが、時折、ちらちらと自噴を見る女の視線に伊地知は緊張しながら喉に何度か詰まらせそうになった。
「伊地知さんに聞きたい事があるんですか」
「な、なんでしょう」
「眼鏡をかけた男性、多分、職員だと思うんですが」
七海さんでしょうか、名前を口にした瞬間、自分が緊張している事に気づいた。
「どんな人なんでしょうか、その人となりというか」
どんな、そう聞かれて返答に困り、真面目な仕事熱心な人ですと伊地知は答えた、世間一般の無難な答えだ、教職ですからと付け加えるように続けると、そうですかと頷いた相手は、それ以上尋ねる事はしない、ほっとした。
店を出たときだ、あれーっ、伊地知さんと声をかけられて振り向くと生徒達だ。
「もしかして、伊地知さんの彼女」
野薔薇の言葉に他の男達も、まさかと言いたげな眼差しで見てくる、違いますよと否定しようとした、すると、隣にいた女性が、だったらいいんですけどねと笑いながら返した。
一瞬、その場が、しんと静かになった。
「いいですね、あの年頃は毎日、色々なことがあって、毎日が楽しいんでしょうね」
手を振りながら去って行く生徒の後ろ姿を見ながら女が笑った。
「そうですね、でも、大人でも」
食事は一人で食べる事が多いので、今日のお昼は楽しかったですと伊地知は隣を見た。
「あっ、それなら私もです、男の人と食べるのは本当に久しぶりで、少し緊張しました」
驚いたように伊地知は彼女を見た、人妻で夫が亡くなった、頭の中で入家の台詞を思い出す。
(七海さんは亡くなったという旦那さんに何か、心ない、暴言のような言葉を、いや、そんなことは)
「また差し入れに行くからって、伝えてください、あっ、伊地知さん、にも」
それではと、背を向けた相手の姿に伊地知は大事な事を思い出した。
「あっ、あの、お茶の、ボトルをお返ししなければ、よければ今度一緒にお食事でも、お礼に」
後ろ姿が通りの角を曲がり見えなくなるまで、見送っていた伊地知だったが、名前を呼ばれて驚いた。
「な、七海さん、どうして」
眼鏡をかけていても、その視線がいつもと違うなど、この時の伊地知は気づきもしなかった。
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