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抗争により延暦寺の末寺とされた。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。

武装化[編集]
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが鎮守社の日吉社にある神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じ、強訴という手段で時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園感神院(現・八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺の末寺とされた。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。延久2年(1070年)には祇園感神院は鴨川西岸の広大な地域を「境内」として認められ、朝廷から「不入権」を認められた[6]。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによって財力も保有し、時の権力者をも無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力を付けた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び








抗争により延暦寺の末寺とされた。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。延久2年(1070年)には祇園感神院は鴨川西岸の広大な地域を「境内」として認められ、朝廷から「不入権」を認められた[6]。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによって財力も保有し、時の権力者をも無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力を付けた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。
武家との確執[編集]

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出典検索?: "延暦寺" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)
建武3年(1336年)には足利尊氏と戦うために後醍醐天皇が延暦寺に立て籠もっている。その際、延暦寺は天皇方に味方している。
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府第六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山の長であったが、還俗し、将軍就任後は比叡山と対立した。
永享7年(1435年)、度重なる比叡山制圧の機会にことごとく和議を諸大名から薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺




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