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キリスト教しなかった蘭英アジア植民地増やしていった。

キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地を増やしていった。
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない[26][27]。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた[26]。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[28][29][30]。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている[29][27][26]。1591年から1593年に秀吉はフィリピン総督に服従を迫っており、豊臣政権はアジアにおけるポルトガル、スペインの脆弱な戦力を把握していたとみられる。追放令でもポルトガル、スペインを軍事的脅威とはみなしてはいない。
追放令後[編集]
1587年の禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。
南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行














バテレン追放令
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この項目では、1587年に豊臣秀吉が出したものについて説明しています。1613年に江戸幕府によって出されたものについては「禁教令」をご覧ください。
秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令)。
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来し、英語のfatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。
原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。

目次

  • 1概説
    • 1.1『天正十五年六月十八日付覚』原文
    • 1.2『吉利支丹伴天連追放令』原文
      • 1.2.1注進状(天正十五年七月十三日)
  • 2「追放令」の起草
  • 3追放令以前の宣教師の状況
  • 4追放令の原因
  • 5追放令後
  • 6同時代史料
  • 7参考文献
  • 8脚注
  • 9出典
  • 10関連項目
  • 11外部リンク

概説[編集]

豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、キリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られているとの讒言を天台宗の元僧侶である施薬院全宗から受けたとされる。このときに『天正十五年六月十八日付覚』が施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
『天正十五年六月十八日付覚』『吉利支丹伴天連追放令』の2つの文書がある。
『天正十五年六月十八日付覚』を偽文書とする異説もあり、文書が分かれた経緯については諸説ある[1]。

『天正十五年六月十八日付覚』原文[編集]

1933年(昭和8年)頃に伊勢神宮の神宮文庫で写しが発見され、1939年(昭和14年)に発表された文書であるが、正文(原本)は発見されておらず、偽書とする見解がある。「覚」書であるため、仏教勢力を代表して異教徒であるキリスト教の布教阻止を目指す施薬院全宗の讒言をまとめた非公開の文書である可能性が検討されている。キリスト教の弾圧を目的として元僧侶が俗説を列挙した宗教的プロパガンダとして、宣教師による仏教等の在来宗教に関しての記述と同じく中立的な資料と見ることはできず、これまで様々な解釈がなされてきた[1]。
  • 伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
  • 国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
  • 其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
  • 弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
  • 右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
  • 伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
  • 本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
  • 国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
  • 伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
  • 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
  • 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。
右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、
天正十五年六月十八日     朱印— 天正十五年六月十八日付覚[2][3]。
(大意)
  1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
  2. (大名に)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
  3. 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
  4. (知行地が)200町、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になるには、秀吉の許可を得ればできることとする。
  5. 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗[注 1]などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
  6. キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
  7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
  8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
  9. (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。
  10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。
  11. ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。
ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。
以上 天正15年(1587年)6月18日

『吉利支丹伴天連追放令』原文[編集]

追放令には前日の「覚」から意思の変化を示す文言があり、日付、伝来も同一でないことから一夜で秀吉に心境の変化があったとする説が提案されている。「覚」では重臣達が出席した御前会議での施薬院全宗の讒言とみられる糾弾を列挙しているが、6月18日時点では宣教師の追放を命じたりキリスト教を邪教と断じてはいなかった。「覚」にあった奴隷、人身売買の文言が消えたのは、ガスパール・コエリョの反論によって修正した可能性もあるが、いずれにせよ家臣団の中でも強い影響力のあった高山右近の棄教・服従の拒否によって追放令が発布された説が検討されている[1]。
追放令では「神国」である「日本之地」でのキリスト教の布教はいかなる条件であっても「曲事(不正)」であり、その神国で神社仏閣を打ち破り信徒を持つことは、前代未聞の「天下」の「御法度」に背く(仏法に反する)「邪法」であると断じている。バテレン追放令は『神風』、『神皇正統記』とならぶ神国思想、皇国史観の宗教的な象徴、源流と見なされているが、天皇・神社の権威を借用しておらず、主に仏教側の視座から施薬院全宗が起草したことが伺える[4]。
  • 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
  • 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
  • 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
  • 黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
  • 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上
天正十五年六月十九日     朱印— 吉利支丹伴天連追放令[5]
(大意)
  1. 日本は自らの神々によって護られている国[注 2]であるのに、キリスト教の国から邪法[注 3]をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
  2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
  3. キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法[注 3]を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
  4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
  5. いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。
以上 天正15年(1587年)6月19日
ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。キリスト教への強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした。事実上は信仰の自由を保障するものであった[6]。この直後、秀吉は長崎をイエズス会から奪還し、天領とする。

注進状(天正十五年七月十三日)[編集]

『吉利支丹伴天連追放令』のおよそ一ヶ月後の天正十五年七月十三日、豊臣秀吉は注進状を皇大神宮(内宮)に奉納している。
伴天連御成敗之事、関白秀吉朱印六月十八日之御紙面、神慮大感応たるへき旨也、就其捧御礼連署、天照皇太神宮 注進 抑 御朱印之趣伴天連御成敗等之事 右御朱印致頂戴、誠以一天太平四海快楽大慶此時奉仰尊
天正十五年七月十三日— 黒住真『天皇を中心とする日本の「神の国」形成と歴史的体験』[4]
天照皇太神宮と関連付けて「伴天連御成敗」が宣言され「神慮大感応」と感謝されており、天台宗の元僧侶が主導してはいるが神仏共同による宗教弾圧であったとする見解もある[4]。

「追放令」の起草[編集]

追放令本文の起草は秀吉本人ではなく、秀吉の側近で主侍医でもあった施薬院全宗とされている。なお、ルイス・フロイス『日本史』によれば、全宗の師である曲直瀬道三は、この追放令発布以前にキリスト教に入信し(天正12年、1592年)、「ベルショール」の洗礼名を受けている[7]。

追放令以前の宣教師の状況[編集]

日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[8]。1563年十一月七日頃[9]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[10]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社仏閣の破壊を禁じていた[11]。
「仏教と暴力」も参照
長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父は
ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある
と述べている[12]。大村純忠は新町長崎と茂木の寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[13]。大村純忠のポルトガル船の誘致、新町長崎と茂木の寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[14]。

追放令の原因[編集]

「プロパガンダ」、「噂」、「情報操作」、および「陰謀論」も参照
秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。
  1. キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
  2. キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。
  3. ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。(性的奴隷)
  4. 秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。
  5. 豊臣秀吉によって1586年5月4日、イエズス会に対して布教許可証が発布されたことに危機感を覚えた仏教等の在来宗教勢力による宗教弾圧の要望を受け入れたため。
  6. ポルトガルとイエズス会(またはスペインとフランシスコ会)による侵略を防ぐため。(学説とは無関係だが自主公表された情報源等において陰謀論として論じられてきた)
1.については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによると秀吉の言い分は「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」というものである。秀吉がこのような考えを持つに至った直接的なきっかけは、九州征伐に向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示したことだとも見られている。同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノはコエリョの軽率な行動を厳しく非難しており、コエリョの行動に問題があったことは確かなようである[15]。キリスト教の拡大については、6月18日の11か条の「覚」(『御朱印師職古格』)ではキリシタンも「八宗九宗」(第九条)と規定して体制下の宗教と見なしていたが、翌19日の「追放令」ではこれを覆すかのように「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおしている。
2.のキリシタンによる神道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊するなどといったことが有馬氏や大村氏などで行なわれていた。秀吉はコエリョに「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」と質問しているが、コエリョは「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。彼らは、(中略)神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」(ルイス・フロイス『日本史 4』)と回答している。
3.の人身売買説に関しては、11か条の「覚」に、日本人を南蛮に売り渡すことを禁止する一文がある一方[注 4][注 5]、翌日の「追放令」にはそのような文言は見当たらない。秀吉は1587年の九州征伐の際、九州を中心として奴隷貿易が行なわれていたことについて当時のイエズス会の布教責任者であったコエリョを呼び詰問するとほぼ同時期にバテレン追放令を発布している。ただし、1537年に発令された教皇勅書スブリミス・デウスは異教徒を奴隷とする事を禁じ、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[16][17]ことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[18]。
日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[18]。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[18]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差が伺える。
伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[19]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となり、江戸幕府が豊臣秀吉の遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[20][21]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、性的サービスの提供を本人の意志に関係なく強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[22][23]。
「からゆきさん」、「遊郭」、「女衒」、および「性的奴隷」も参照
4.の女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤りである。よってこれが理由ということは考えられないとの説があるが、女漁りが施薬院全宗個人の嗜好である場合、宣教師から秀吉に告げ口される前に施薬院全宗が先を制して噂、憶測等をもとにした讒訴をしたとも考えられる。「(秀吉のために)キリシタンの女を連れていこうとした施薬院全宗が命令への不服従に怒り、秀吉にキリシタンの女が命に逆らったと讒訴をして秀吉が激怒した」のであれば矛盾は無くなる。
5.は自身も仏教徒である秀吉が元僧侶である施薬院全宗や大村由己の讒言を受け入れたことを前提とし、秀吉側近だった施薬院全宗等が九州で一定の信者数を持ち、前年に布教許可まで受けたキリスト教に対する危機感を主要な動機とした宗教戦争との見解である。必ずしも神国、皇国史観に沿った魔女狩り、宗教弾圧であったとする俗説と対立するわけではない。豊臣政権から徳川幕府に移行してからも、仏僧である以心崇伝がキリスト教弾圧において主導的役割を果たしている。一方で、キリスト教の禁止を働きかけたのを神道側とする見解もあり、その直接的なきっかけが、伊勢神宮がある伊勢国南部を与えられていた蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたことに伊勢神宮や神宮と密接な朝廷が危機感を覚えたとするものである[24][25]。
「仏教と暴力」も参照
6.のポルトガルやスペインによる植民地化を懸念した陰謀論については、大航海時代のポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う内陸部の植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地を増やしていった。
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない[26][27]。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた[26]。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[28][29][30]。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている[29][27][26]。1591年から1593年に秀吉はフィリピン総督に服従を迫っており、豊臣政権はアジアにおけるポルトガル、スペインの脆弱な戦力を把握していたとみられる。追放令でもポルトガル、スペインを軍事的脅威とはみなしてはいない。

追放令後[編集]

1587年の禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。
南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。
追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[31]。1590年、ガスパール・コエリョと対象的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[32]。
スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた[33]。
私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています[33]。— 1586年、スペイン国王フェリペ2世
秀吉が明と朝鮮の征服を試みるのと並行して、1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、1592年5月31日に入貢と服従を勧告する秀吉からの国書をフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉もフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画が実施されることは無かった[34]。
1593年(文禄2年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが平戸に来着し、肥前名護屋城で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた。
秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことであるが、事件を発端とした弾圧からはイエズス会が除外されており追放令は空文化していた。
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年(慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになるが、家康の禁教令は臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝によって起草された。言い回しなどは基本的な部分において施薬院全宗が起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都にあった教会等の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らばることになるが弾圧は徹底されなかった。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[35]。
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であり、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。

同時代史料[編集]

  • 『豊前覚書』
  • 『高橋紹運記』
  • ルイス・フロイス『日本史』

参考文献[編集]

  • H・チースリク監修・太田淑子編『キリシタン 日本史小百科』(東京堂出版、1999年)
  • 安野眞幸『バテレン追放令 16世紀の日欧対決』(日本エディタースクール出版部、1989年)
  • 松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人 新装版』(朝文社、2001年)
  • 黒住真「キリシタン禁制と近世日本 秀吉「天正十五年六月十八日付覚」をめぐって」(『複数性の日本思想』ぺりかん社、2006年)
  • 高瀬弘郎『キリシタンの世紀 -ザビエル渡日から「鎖国」まで-』(岩波人文書セレクション、2013年)

脚注[編集]

  1. ^ 八家九宗のことで、日本に広まった仏教の南都六宗(倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗)に、天台宗、真言宗を加えて8つとし、さらに禅宗あるいは浄土宗を加えた9つの宗派を指す。
  2. ^ 「神国」や「神州」という語は、対外的な緊張が高くなったときに用いられた。
  3. ^ a b 本来は「邪法」の対語は「正法」であるが、ここではこれを仏法(仏教そのもののこと)と言い表している。
  4. ^ 徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版には、「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録や天正遣欧使節の報告書にはヨーロッパ人がアジア人を奴隷貿易していたことが書かれている」と記されているが、これは出典が不明な上、朝鮮出兵の時代の日本になぜか「記者」がいたり、当時は外国人が入ることを許されなかった朝鮮においてヨーロッパ人がアジア人を使役していたりなど、事実と異なる記述がある。このため信憑性を疑問視する説もある。
  5. ^ その他の条文で「商人は出入り自由」としていること、後の朝鮮出兵において朝鮮人捕虜を日本に連れてきて労働力としていることなどから、これは主要な目的ではなく、明征服にあたって少しでも人口を減らしたくなかったために盛り込まれた条項と推測する山本博文の説もある。 山本博文『天下人の一級史料―秀吉文書の真実―』(柏書房、2009年)

出典[編集]

  1. ^ a b c 安野眞幸「「キリシタン禁令」の研究」(尾藤正英先生還暦記念会編『日本近世史論叢』吉川弘文館、 1984年)
  2. ^ 原文は伊勢神宮神宮文庫所蔵の『御朱印師職古格』
  3. ^ 高瀬(2013年)より引用。
  4. ^ a b c 黒住真「天皇を中心とする日本の「神の国」形成と歴史的体験」(稲垣久和編『神の国と世界の回復 ―キリスト教の公共的使命―』教文館、2018年)
  5. ^ 原文は松浦史料博物館蔵の松浦家文書。
  6. ^ 日本の「鎖国」」 、 2011年4月4日閲覧。
  7. ^ 大鳥蘭三郎「曲直瀬一溪道三の入信問題に就て」(『日本医史学雑誌』1307号、1942年)
  8. ^ Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f. 155.
  9. ^ バチェコ・ディエゴ著・佐久間正訳『長崎を開いた人―コスメ・デ・トルレスの生涯』(中央出版社 1969)
  10. ^ アルメイダ、1564年10月14日付豊後発信書(Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598.f.151v.)
  11. ^ H・チースリク 「高山右近領の山間部におけるキリシタン――布教・司牧上の一考察」(キリシタン文化研究会『キリシタン研究第十六輯』一九七六年)
  12. ^ Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f.435
  13. ^ Alejandro Valignano S. I. Sumario des las Cosas de Japon(1583). Adiciones de l sumario de Japon (1592). editados por jose Luis Alvarez-Taladriz. Tokyo 1954. Introduction. p. 70.
  14. ^ 井手勝美訳「日本イエズス会第一回協議会(1580-81)と東インド巡察師ヴァリニャーノの裁決(1582)」(キリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第二十二 吉川弘文館 1982) p246,292-293,328 
  15. ^ 高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」(『キリシタン時代の研究』岩波書店、1997年)
  16. ^ Nelson, Thomas (Winter 2004). Monumenta Nipponica (Slavery in Medieval Japan). Vol. 59. Sophia University.. p. 463
  17. ^ Monumenta Nipponica: Studies on Japanese Culture, Past and Present, Volume 59, Issues 3-4. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 463 2014年2月2日閲覧。
  18. ^ a b c デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235
  19. ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
  20. ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』新説社、2005、p121
  21. ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』長崎文献社、1968、p232
  22. ^ Harald Fischer-Tiné (2003). “'White women degrading themselves to the lowest depths': European networks of prostitution and colonial anxieties in British India and Ceylon ca. 1880–1914”. Indian Economic and Social History Review 40 (2): 163–90 [175–81]. doi:10.1177/001946460304000202.
  23. ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Translated by Karen F. Colligan-Taylor. Routledge. p. 63. ISBN 978-1317460251
  24. ^ 神田千里「伴天連追放令に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』史学科篇37号(2011年)
  25. ^ 清水有子「豊臣秀吉政権の神国宣言」『歴史学研究』958号(2017年)
  26. ^ a b c Lipp, Solomon. Lessons Learned from Pedro de Gante. American Association of Teachers of Spanish and Portuguese. Hispania, 1947, 194.
  27. ^ a b Schwaller, John F. (October 2016). "Franciscan Spirituality and Mission in New Spain, 1524–1599: Conflict Beneath the Sycamore Tree (Luke 19:1–10) by Steven E. Turley (review)". The Americas. 73 (4): 520–522.
  28. ^ Metcalf, Alida C. (2005). Go-Betweens and the Colonization of Brazil : 1500-1600. Austin, TX: University of Texas Press. pp. 17–33. ISBN 0-292-70970-6.
  29. ^ a b Caraman, Philip (1976), The lost paradise: the Jesuit Republic in South America, New York: Seabury Press.
  30. ^ "Bartolome de Las Casas | Biography, Quotes, & Significance". Encyclopedia Britannica. Retrieved 3 November 2017.
  31. ^ Boxer, C. R. (1951). The Christian Century in Japan: 1549–1650. University of California Press., pp. 152–53. GGKEY:BPN6N93KBJ7.
  32. ^ The Spanish Lake, O. H. K. Spate, 2000
  33. ^ a b Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II (New Haven and London: Yale University Press, 1998), 6.
  34. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  35. ^ 池上裕子・小和田哲男・小林清治・池享・黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年) 502頁参照。

関連項目[編集]

  • 宗門改
  • 高山右近
  • 神国
  • 禁教令
  • サン=フェリペ号事件

外部リンク[編集]

  • デジタル大辞泉『バテレン追放令』 - コトバンク
  • 百科事典マイペディア『バテレン追放令』 - コトバンク
  • 世界大百科事典 第2版『バテレン追放令』 - コトバンク
  • 世界大百科事典 第2版『神国思想』 - コトバンク
  • 朝日日本歴史人物事典『曲直瀬道三(初代)』 - コトバンク
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