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ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。

しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴婢の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で人狩りを行った。惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴婢を利用した。
前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された[48]。1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにもあった[49]。乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという。
いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」(乱妨取り)と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は倭寇やポルトガル商人を通して東南アジアなどにも輸出された。
1514年にポルトガル人がマラッカから中国と貿易を行って以来、ポルトガル人が初めて日本に上陸した翌年には、マラッカ、中国、日本の間で貿易が始まった。中国は倭寇の襲撃により、日本に対して禁輸措置をとっていたため、日本では中国製品が不足していた[50]。当初、日本との貿易は全てのポルトガル商人に開






1514年にポルトガル人がマラッカから中国と貿易を行って以来、ポルトガル人が初めて日本に上陸した翌年には、マラッカ、中国、日本の間で貿易が始まった。中国は倭寇の襲撃により、日本に対して禁輸措置をとっていたため、日本では中国製品が不足していた[50]。当初、日本との貿易は全てのポルトガル商人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した[50]。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。船はゴアを出航し、マラッカ、中国に寄港した後、日本に向けて出発した。南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[50]。
1537年のスブリミス・デウスにおいて教皇パウルス3世はアメリカ先住民の奴隷化を無効だと宣言していたが、1541年のポルトガル船来航以降にも奴隷貿易が行われてきた。日本マカオ間の定期航路の開通にともない行われた奴隷貿易に対して、1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、ポルトガル王セバスティアン1世は1571年に禁止を命令した[51]。






ポルトガル王による1571年の人身売買禁止までの南蛮貿易の実態だが、1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる[52]。実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダの一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量、奴隷と積荷を離すための隔離区間、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人程度と考えられている[53][54][55]。
関白の豊臣秀吉は、天正15年(1587年)バテレン追放令でこれを禁じたとされるが、実際に発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚書から削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[56]。天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉は上杉景勝らの人身売買を禁止、同年8月、宇都宮国綱に人身売買の禁止と百姓などを土地に縛りつけ、他領に出ている者を返すことを命じ、労働供給の安定を図っており、人身売買や百姓の逃散、欠落の禁止による人口流出の防止が豊臣秀吉の経済財政政策における基本方針だったとする説がある[57]。バテレン追放令後の天正19年(1591年)、教皇グレゴリウス14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[58]。





デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[58]。
日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[58]。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。— デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235







ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。










天正14年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏の豊後侵攻の乱妨取りで拉致された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している[62]。『上井覚兼日記』天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録を残している。天正16年(1588年)8月、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状で
豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること— 下川文書、天正16年(1588年)8月
と、天正16年(1588年)閏5月15日に肥後に配置されたばかりの加藤清正と小西行長に奴隷を買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。同天正16年(1588年)同様の命令があったことが島津家文書の記録として残っている。
文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に
日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わねば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり— 朝鮮日々記
と記録を残している[63]。渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している[64]。





多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた[65]。
薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[66][67]。
江戸時代[編集]
元和2年(1616年)江戸幕府は高札で人身売買を禁止、元和四年に禁制を繰り返し、元和5年(1619年)12箇条の人身売買禁止令を発布、寛永4年(1627年)正月にも人身売買禁止令をだすなど、人身売買の禁令は豊臣秀吉以降も繰り返し行われた[68]。
江戸時代に勾引は死罪とされ、新規の奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは、前借金を伴う年季奉公の形で認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。
なお、刑罰(身分刑)として奴隷的身分に処するものとして、江戸幕府下においては「非人手下」や「奴刑」が残り、各藩においても同様の刑罰が残った[69]。
江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているところから、広義における農奴と規定する定説が認められている。本百姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人等も存在し、家父長的奴隷制として規定することがある。地方によっては家抱、門屋、庭子、内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は水呑百姓以下だったとされる。傍系家族・下人も含め名主家族そのものを広義の農奴の一存在形態とする見解もある。






芸娼妓解放令が有名無実なものとなると人身売買に対する法的規制が後退し、他人を売るより子孫を売る方が罪が軽く「和売」が行われていた。[70]明治から昭和にかけての人身売買について牧英正は、農村の慢性的貧困、父権の強さが人身売買を発生させる温床となる構造上の理由を説明している。[71]
明治の日本では、女性を騙して海外へ連れ出し売春させるという手口が多発していた[72][73][74][75][76]。
外務省訓令第一号
警視庁 北海道庁 府県
近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし
明治二十六年二月三日
外務大臣 陸奥宗光
内務大臣 伯爵井上馨
19世紀から20世紀初頭にかけて、日本の売春婦が中国、日本、韓国、シンガポール、インドなどのアジア各地で人身売買されるネットワークがあり、当時「黄色い奴隷売買」として知られていた[77]。「からゆきさん」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、貧困にあえぐ農村から、東アジア、東南アジア、シベリア(ロシア極東)、満州、インドなどに人身売買され、中国人、ヨーロッパ人、東南アジア原住民などさまざまな人種の男性に売春婦として性的サービスを提供した日本人の少女・女性のことである。中国での日本人売春婦の経験は、日本人女性の山崎朋子の著書に書かれている[78][79][80][81][82][83][84][85][86][87][88]。
朝鮮や中国の港では日本国民にパスポートを要求




朝鮮や中国の港では日本国民にパスポートを要求していなかったことや、「からゆきさん」で稼いだお金が送金されることで日本経済に貢献していることを日本政府が認識していたことから、日本の少女たちは容易に海外で売買されていた[89][90]。1919年には中国人が日本製品をボイコットしたことで、からゆきさんの収入になおさら頼るようになった[91]。明治日本の帝国主義の拡大に日本人娼婦が果たした役割については、学術的にも検討されている[92]。
バイカル湖の東側に位置するロシア極東では、1860年代以降、日本人の遊女や商人がこの地域の日本人コミュニティの大半を占めていた[93]。黒海会(玄洋社)や黒龍会のような日本の国粋主義者たちは、ロシア極東や満州の日本人売春婦たちを「アマゾン軍」と美化して賞賛し、会員として登録した[94]。









大日本帝国の成長はからゆきさんと結びついた。19世紀後半、日本の貧しい農民の島々は、からゆきさんとなった少女たちを太平洋や東南アジアに送り出した。九州の火山性の山地は農業に不向きで、両親は7歳の娘たちを長崎県や熊本県の女衒に売り渡したが、5分の4は本人の意志に反して強制的に売買され、5分の1だけが自らの意志で売られていった[102]。
人身売買業者が彼女たちを運んだ船はひどい状況で、船の一部に隠されて窒息死する少女や餓死しそうになる少女もおり、生き残った少女たちは香港、クアラルンプール、シンガポールで娼婦としてのやり方を教えられ、オーストラリアなど他の場所へ送られた[103]。
戦後[編集]
戦後は日本国憲法が発布され、日本国憲法第18条にて国民に対し奴隷制度を禁じたが、外国人技能実習制度が事実上の奴隷制度であると国際的に非難が上がっている[104]。
第二次世界大戦直後は、未成年者が前借金で事実上売買され、作男や農業手伝いに従事する例が目立った。1950年に特殊飲食街が各地で形成され始めると売春婦として送り出されるケースが55%(前年は2%)に急上昇。次いで紡績女工、子守、女中が続いた。身売り元の多くは東北地方で、受け入れ地は東京都、埼玉県などであった[105]。




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