ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

太田光・中沢新一著『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)の思考法

2006年08月23日 | メディア
(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

憲法九条を世界遺産に

集英社

このアイテムの詳細を見る


 日本国憲法は、日米合作によって生み出された一瞬の奇蹟であった。そこには、当時の日米の理想が生きている。どんな問題をはらんでいたとしても、当時の日本人の心に深く入っていくものがあった。世界でも稀有な、この珍品を世界遺産として残そう。というのがこの本の趣旨である。

 しかし、「新しい憲法を私たちの手で作り、新しい日本を作り上げましょう。」「憲法九条の理念と現実とのギャップを埋めましょう。」などと、爽やかにきっぱりと言い切られると、私たちは、ついふらふらとついていきたくなる。政治家が国民を引っ張っていくには、そういう分かりやすさと決断が必要なのかもしれない。それは、私たちが常に矛盾に満ちた存在で、理想と現実の間を揺れながら、誰かがすっきりした解決策を示してくれることを望んでいるからなのかもしれない。

 本書における太田・中沢両氏の対話は、まず、宮沢賢治の平和思想がはらんでいる矛盾を手がかりに、愛や正義や平和といった価値を絶対的なものとして無批判に信じることの危うさや、言葉の持つ力と危うさを掘り起こすところからはじまる。他者を、また自らを、右だ、左だと分けてしまうことで、いかに大事なことを見落とすことになるか。自分がかかえている矛盾から目をそらし、問いかけることをしなくなれば、私たちの心がいかに貧しくなるか。あいまいさに耐え、自らを疑いながら生きていくことがいかに大切であるか・・・

 今、私たちに求められているのは感受性を回復すること。死者と対話し、彼らが語ろうとしていたものを蘇らせることが生命を復活させるという。たしかに、目に見えないものへの豊かな感受性に支えられてこそ言葉は輝きを取り戻す。それは憲法九条についてもいえる。こうして、もしも私たちが、憲法九条を残そうとするなら、それがもたらすであろう負の事態をも引き受ける覚悟が必要である。

 そして、まったくジャンルの異なる二人は、それぞれの方法で自らの思考を表現するスキルを磨くことの大切さを確認しあう。

 これは思想を語る本ではない。二人が展開してみせてくれている思考法こそ、私たちはこの本から学ぶべきだろう。

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文字・活字文化を担っているのは書籍や新聞・雑誌だけではない。

2005年07月25日 | メディア
(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

文字・活字文化振興法案は、7月22日に参院を通過し、成立した。しかし、JLAメールマガジン第264号によると「衆参いずれの委員会においても審議が行われず、その内容を深める論議がなされなかった」そうだ。やはり・・・懸念していたとおりだ。法案に関して、新聞各社は一様に国民の活字離れや読書離れを憂え、文字・活字文化振興の重要性、書き言葉の重要性、そのための教育の重要性を強調してきたが、これが声明や宣言ではなく法律であるということは、ただ「良いことを言っている」ではすまされない。法律を作って具体的に何をしようとするのかが問われる。

国や地方自治体が文字・活字の文化の重要性を認識し、図書館の整備、読書活動の推進、学校におけるメディア教育などに関するこれまでの取り組みや運動を支援し、盛り上げていこうというのなら大いに歓迎である。その際、社会やメディア環境の変化に伴って、私たちのライフスタイルも変化していることを認識しておく必要がある。いまや文字・活字文化を担っているのは書籍や新聞・雑誌だけではない。公私を問わず圧倒的に多くの文書がパソコンで作られており、そのなかにはネットで読めるものもかなりある。書籍、新聞、雑誌などの印刷メディアだけでなく、ネット上の情報やコミュニケーションも、言論や思想の自由と民主主義の維持に重要な役割を果している。そして、文字・活字に依存しないマンガ、写真集、絵画、楽譜などの出版物もまた、私たちの文化を支える大切なメディアであることも忘れてはならない。

また、法律が書き言葉だけを取り上げて「言語力」としているのは間違いである。話し言葉を基盤として発達した私たちのコミュニケーション能力は書き言葉を獲得することで質的な転換をし、その後、相互に影響しあいながら発達していくものである。書き言葉の重要性を主張するために話し言葉の駄目なところを強調するのは一面的である(たとえば公明党のHPに掲載された劇作家山崎正和氏の議論)。書き言葉と話し言葉はそれぞれ特性が異なり、それが長所にもなり短所にもなるのである。そのことを十分に意識し、映像も含めて言語以外の多様なメディアをバランスよく活用して、それぞれの特性を十分に生かしながら「正気で」生きる力を涵養することが教育の役割であろう。そのような教育の基本は、書物にかぎらずあらゆる情報やコミュニケーション活動をクリティカル(批判的)に吟味し、適切に状況を判断する力を育成することである。

一口に「文字・活字文化推進の具体的な条件整備」を求めるといっても、そこには、いろいろな思いがこめられているようだ。振興法成立の翌23日、読売新聞は「21世紀活字文化プロジェクト」で、法案成立とともに、再販制度の堅持と出版業界への新たな財政支援、優遇税制などを求める(おそらく出版業界の)声が強いと報じている。出版業界を支援し再販制度を維持しなければ、学術的な本や「良書」が淘汰される懸念があるというのである。

以下、同サイトに紹介されている各党の気になる発言を取り上げる。( )内は筆者のコメント。
自民党・与謝野政調会長「今後大事なのは国や自治体の取り組みだ。大もうけをしなくても、出版業・新聞業が成り立つような環境にないと、日本の文化は急速に衰える。やさしい映像文化・インターネット文化が出てきているから、文字・活字文化はみんなで努力しないと急速に衰える」(再販制度を念頭においた発言であることは明らかだ。)
公明党・神崎代表「映像文化だけでは人は受け身になり、考える力を失ってしまう。青少年の心の荒廃が叫ばれている今こそ、活字文化の振興は時を得たものだ」(逆もまた真なり。文字・活字だけでは、人は豊かな感性を失ってしまう。かつての受験勉強の弊害は、実体や実感を伴わない文字・活字の丸暗記によってもたらされたものであった。文字・活字を真に意味あるものとして受けとめ、豊かな想像力を働かせるためには、生活経験や視聴覚メディアによる感性の裏打ちが必要である。)
民主党・仙谷政調会長「海外には、図書館が本を仕入れる際、活字文化振興基金のようなファンドに資金を入れるところがあるそうだ。図書館があることで、本来なら著者に入る印税収入が減るわけだから、減収分を相殺するのが目的だという」(わが国でも公共貸与権を認めたいという趣旨らしいが、海外の実情を正確に把握し、図書館の無料原則の意義をふまえたうえで論じてほしい。)

ここでも、「やはり・・・」という思いが強い。「言語力」の涵養や図書館の整備など読書環境の整備のために法律をつくることが急務であるかのように見せかけて、じつはその法律を楯にして業界の保護を図ろうという意図が当初からあったのではないか。「良書」などという絶対的な価値観で括ってしまわないで、出版者の自由と同時に読者の自由も尊守しながら、多様で豊かな読書環境・メディア環境の実現に向けて国民的な運動を展開していきたいのである。そのために、出版業界には、ぜひとも経済、メディア、読者の動向と今後を見据えた、新たな出版と流通のあり方を考えてほしいと思う。

法律そのものに異論があるわけではない。ただ、人間の活動全体の中で文字・活字が果たす役割を正当に位置づけたうえでの施策を展開してほしい。今後は上記のことを念頭に置きながら、具体的な施策が、どのような形で提案されるのかに注目したい。とくに、再販制度の維持や版面権の創設、公共貸与権の扱いなどについては、自由な出版活動、出版物の公正で自由な流通、自由な読書活動や情報行動の妨げとならないように、国民的な議論を尽くすべきであろう。

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文字・活字文化振興法案をめぐる補足

2005年07月21日 | メディア

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

文字・活字文化振興法案をめぐっては、図書館の充実など読書環境の整備や読書活動の推進、読解力の育成、出版業界の振興などが、渾然一体として論じられている。それらは互いに密接に関連し、影響しあってはいるが、法案の論点を明確にするためにも、それぞれの問題点を整理しておく必要があるだろう。

いわゆる「活字離れ」「読書離れ」について
読書に関する最近の調査から、子どもの「活字離れ」「読書離れ」が進んでいるという証拠はみつけにくい。2004年の5月の学校読書調査によると、小学生の読書冊数が相変わらず多く、中・高校生の読書冊数も大きく伸びており、不読者の割合は、どの校種とも少なくなっている。「子どもの読書活動推進に関する法律」の制定をはじめ、朝の読書など全校一斉読書、読み聞かせやブックトークなど、教師や学校図書館関係者の日々の実践が功を奏しつつあるといえるだろう。それにネットやケータイなど電子メディアの利用を含めれば、青少年が文字や活字に触れる機会はむしろ大幅に増えていると考えられる。このことに関しては、「活字離れ」なんて、起きていない(YOMIURI ONLINE)、ネット普及=活字離れは間違い(YOMIURI ONLINE、本よみうり堂)、植村八潮氏のブログ「ほんの本の未来」などを参照されたい。

では、子どもたちが本を読まなくなっているわけでもなく、活字離れが起こっているわけでもないのに、「読書離れ」「活字離れ」といわれるのはなぜか。ひとつには、出版業界の業績不振がある。新刊の発行点数は増えているのに、販売部数は伸びず、売上高が減っている。出版業界から見れば、活字離れ、読書離れと写るのだろうが、本が売れないからといって読書離れといえない。もうひとつは、読書量は徐々に回復しているとはいえ、子どもたちに「もっと」本を読んでほしいという親や教師の願いが、このような表現に込められているにちがいない。かくいう筆者自身も、楽しく、わくわくする本や、感動的で生き方に役に立つ本がたくさんあることを子どもたちに伝えたいし、本は情報(コンテンツ)だけでなく、組版や装丁、質感なども一緒に味わい楽しんでほしいとも思う。しかし、そんなことは子どもたちにとっては、大きなお世話かもしれない。読書を阻害している要因を取り除き、豊かなメディア環境を整備することで、子どもたちは、どんどん自分で本を選んで読むようになることがこれまでの実践のなかで分かっている。しかし、成長するにつれて読書時間の確保が難しくなり、絶対的な読書量が少なくなるのが残念である。

OECDの学力調査(PISA)における読解力低下の問題
これは、ひとえに言語教育あるいは教育の核心にかかわる問題である。いま、学校教育は、子どもの主体的な学びの活動を保障していくことが求められているが、それを実現するキーワードは対話と協同による学びである。読解力も、ただ個人の読書量を増やせばいいというものではなく、作品との対話、同じ作品を読んだ仲間との対話を通して身につくものである。アメリア・アレナスの美術鑑賞教育『みる かんがえる はなす』(淡交社、2001)に習って、読書指導も「よむ かんがえる はなす」教育実践をすすめてみてはどうだろう。そのような取り組みとして、スペインの社会・文化運動を基盤とする「読書へのアニマシオン」、ヴィゴツキーの社会的構成主義やバフチンの言語理論に基づく読書指導(たとえば、佐藤公治著『認知心理学からみた読みの世界 対話と協同的学習を目指して』北大路書房、1996)などにも、今後注目していきたい。しかし、その前に、まず、生身の人間関係や直接的なコミュニケーション活動を通して、対話する力、状況を読み解き関係性を把握する力、自らの思考を振り返って評価する力を育むことが、あらゆる活動の基礎となる。ネットやケータイは、活字ばかりでなく絵文字や映像を使って相互のコミュニケーションをするのに適したメディアだが、むしろ大量の活字のやり取りのなかで活字に依存する度合いが増えているのではないかと気がかりである。

みる・かんがえる・はなす。鑑賞教育へのヒント。淡交社このアイテムの詳細を見る

 

認知心理学からみた読みの世界―対話と協同的学習をめざして北大路書房このアイテムの詳細を見る



出版業界の不振
先にも触れたように、書籍の販売部数の減少や出版業界の不振の主な原因は、国民の「活字離れ」「読書離れ」にあるとは言い切れない。今、出版のあり方や流通システムの変革と再編を必要とする状況が進行しているが、業界の時機を逸しない的を射た対応を期待したい。そのひとつの鍵を握るのが、紙媒体と電子媒体の統合と共存であろう。たとえば、デジタル・データとして作成・保存される出版物は、書籍、個人による印字、電子出版など、読者が利用しやすい、さまざまな出力形態を選択して提供できるが、その利点をうまく生かすことが必要だろう。オンデマンド出版や「新潮ケータイ文庫」などの試みがすでに始まっているが、こうした取り組みを有効に展開していくために今後どのようなシステムが構築されるのかに注目したい。また、出版社や書店にとっては、大量に売れるヒット作を出版・販売することも必要かもしれないが、個々の読者にとっては売れない本も貴重である。出版部数の少ない専門書の流通を改善することで価格を抑え、図書館ばかりでなく個人でも手に入れやすくなれば、たいへんありがたい。(書店の品揃えやネット販売に関しては、2005年7月21日付朝日新聞朝刊の経済欄「なるほど!戦略」にジュンク堂の取り組みが紹介されていて参考になる。)

日本図書館協会の声明
最後に、私はこの法案に関して日本図書館協会が2005年7月8日付けで出した「文字・活字文化振興法案について」と題する声明を支持する。とくに下記の引用部分に共感し同意するとともに、ここでの提案をぜひ法案に生かしてほしいと願うのだが、はたして衆参両院を通じての審議の中でどこまで検討されたのだろうか? 活字文化議員連盟の議員の皆さんは、このような声にどのように応えようとされたのだろう? また、学校図書館関係の団体は、この法案にたいして、どのような立場を表明しているのだろう?

文字・活字文化はすぐれて思想の自由、人権尊重に関わることです。国民一人一人の内面に関わることであり、これを法律により振興することは、その意図することとは逆の結果も招きかねない側面があります。「文字・活字文化が…健全な民主主義の発達に欠くことができないもの」(第1条)、「国民が、その自主性を尊重されつつ」(第3条)と述べていますが、例えばその「民主主義」にあえて「健全な」との語句を入れ、一定の価値観を示しているようにみえるのはなぜでしょう。国、地方公共団体は文字・活字文化振興の環境整備、条件整備にのみ責任を負うことを強調すべきです。 人類が民主主義を獲得してきた歴史は、出版、表現、学問、思想の自由を獲得してきた歴史そのものです。その意味で単なる文字・活字文化ではなく、法案第1条には「自由な」との語句を入れ、「自由な文字・活字文化が、人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識及び知恵の継承及び向上、豊かな人間性の涵養並びに民主主義の発達に欠くことのできないものである」とすべきだと提言します。読むことは、本来個人の自由な営みであり、読むことに妨げがあってはならない、という基点を明らかにすることが必要です。(日本図書館協会「文字・活字文化振興法案について」2005.7.8)

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらに、文字・活字文化振興法案について考える

2005年07月17日 | メディア
(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

7月16日付朝日新聞朝刊の報道は、相変わらず法案の本来の目的から読者の目をそらすものだ。

教職員の資質向上や学校図書館の充実を通じて「言語力」の向上を目指す「文字・活字文化振興法案」が、15日の衆院本会議で全会一致で可決され、参院に送られた。今国会で成立する見通し。

法案に目を通すかぎり、「国民が読書に親しみやすい環境づくりを進めることなどを目的とした・・・」とする読売の報道が比較的妥当といえないだろうか。

それにしても、2001年12月に「子どもの読書活動推進に関する法律」が成立し、2002年8月には「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」が閣議決定されなど、かねてからの「朝の読書」の普及やブックスタートの推進などとあいまって、読書活動推進の機運と成果が高まりつつある現在、なぜ、ここで新たな法案が必要なのか。バブルの崩壊以後危機的状況にある出版業界の保護が主たる目的であると考えるのが妥当であろう。出版業界が活性化すれば、書店や文筆で生計を立てている人たちに利することになるし、読書活動の推進や言語力の育成も容易になり、その限りにおいては異論をさしはさむ余地はない。しかし、その一方で業界「保護」という形で活性化を図るのが妥当かという問題もあり、何よりも法案が提出された本来の目的のために教育界や学校図書館を利用してほしくはないとも思う。

法案とともに公表されている施策案を見ると、「再販制維持」や「版面権の創設」が盛り込まれており、この法案に対する疑義や批判の多くは、この部分に向けられている。再販制度とは、公正かつ健全な経済活動と逆行する特例を維持してまで守らなければならないものだろうか。(1996年9月30日付けで日本書籍出版協会、日本雑誌協会の見解が公表されている。「論点公開」に対する意見 出版物再販制度の果たす役割)また、これまで楽譜などに認められてきた「版面権」をすべての出版物に適用することは、公正な著作権の一部といえるのか。このような形での業界保護は、これからの情報社会における私たちの自由な情報活用行動を阻害することにならないのか。もっとよく議論し吟味する必要があるだろう。(郵政法案の陰に隠れて、あっという間に全会一致で衆議院文部科学委員会と本会議を一日で通過したということは、いかに、まともな議論がなされなかったかということを物語っている。)それにしても、法案作成の母体となった活字文化議員連盟の前身である「活字文化議員懇談会」のアピールなどを見ると、この法案の真の目的は、やはりそこにあったのか、と邪推(?)してしまう。

法案にいうように、人類の智恵と知識の継承、豊かな人間性の涵養、および民主主義の発展のために文字・活字文化の振興が不可欠であることはいうまでもない。しかし、それは、現在利用可能な多様なメディアの共存を図りながら、文字・活字文化の新たなあり方を模索していくことによって実現していくべきものであろう。法律まで作って、ことさら文字・活字の重要性を強調することは、むやみに活字をありがたがり、本に権威を持たせる風潮を復活・助長することにならないか。

私たちは、また、エコロジーの観点から紙をベースにした印刷文化を見直すことも必要だろう。紙の浪費が森林破壊の原因になっていることにも目を向けて、出版部数の増加を至上とする考え方を変えなければならない。日本では、現在1日に約200点の新刊本が出版され、書店に搬入された新刊本のうち約40%は返本され(2000年の統計をもとに試算すると1日約150万冊)、そのうち廃棄(裁断処理)されるものも相当数(1日約50万冊とも聞く)に昇るという。その無駄な運送に伴う環境負荷も軽視すべきではない。再生紙の利用はもちろん、デジタル出版やオンデマンド出版などをうまく活用することによって、紙資源を有効に活用し、必要とする人に必要な本を届けられるように、知恵を出し合いたいものである。

バブルの崩壊やインターネットの普及などにより、今、出版のあり方は、大きな転機を迎えていることはたしかである。しかし、言語力の涵養や図書館の充実といった甘い言葉を並べ立てた法を盾にして読者層の拡大と業界保護をはかることはやめてもらいたいと思う。法案が真に言語力の涵養を主たる目標とするのなら、読み書きの基礎となる聞き話す能力、さらにそれ以前の非言語的な体験やコミュニケーションをも視野に入れたトータルでバランスの取れた言語能力の育成を盛り込むべきであろう。それは単に学校教育のみにゆだねられるものではなく、家庭・地域・社会において子どもの生きる営みに根ざしたものでなければならないはずである。

出版業界の目先の保護を第一義と考えるのでなく、社会や経済と文化の将来に関するたしかな見通しを持って、出版業界の変容と再編を促し、私たちの情報活動にとって真にプラスとなる新たな「文字・活字」文化の創造していく方途を探ってほしい。その上で、法の有無にかかわらず、それぞれ独自に運動を展開している図書館関係者や学校図書館関係者や読書活動推進者と連携を模索すべきであることはいうまでもない。

以上のことを考慮するとき、法案に対する早急な賛否の判断を留保して、しばらくは、さまざまな立場や角度からの議論に耳を傾け、これから講じられる具体的な施策を見守りながら、是は是、非は非として対応しようと思う。

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文字・活字文化振興法案

2005年06月19日 | メディア
(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

 超党派の国会議員286人でつくる活字文化議員連盟(代表幹事・河村建夫前文部科学相ら)は、近く、「文字・活字文化振興法案
」を国会に提出する方針だという。その論議の経過に関する報道を見ながら、考えさせられることがいくつかあった。

「言語力」
 そのひとつは、朝日新聞2005年05月10日15時39分の記事につけた下記の見出しである。

 「言語力」育成目指し法案提出へ 超党派の活字文化議連

 これは事実関係にたいする誤った認識を読者に誘導しかねない表現ではないか。法案成立の経緯を見ても、この法案の目的は「文字・活字文化振興」(もっと直接的には出版文化の振興だと推測される)であって、そのために「言語力」という概念を作り出したことは明白である。
「言語力」については、法案の基本理念に次のように記されている。

 学校教育においては、すべての国民が文字・活字文化の恵沢を享受することができるようにするため、その教育の課程の全体を通じて、読む力及び書く力並びにこれらの力を基礎とする言語に関する能力(以下「言語力」という。)の涵養(かんよう)に十分配慮されなければならない。

 上記朝日の記事によると、「(読む力・書く力を基礎とする)言語に関する能力」とは、調べる力や伝える力を含む幅広い能力のことを意味しているらしい。
 もしも言語本来のあり方から「言語力」を規定するとすれば、読み書く力の前に、まず聞き話す力に重点がおかれるはずである。家庭・地域・学校における豊かな人間関係のなかで育まれる豊かな話し言葉の力を基盤にして読み書く力を涵養し、それをもとにして、調べる力や、調べたことを多様な表現手段によって伝える力を養うというのが、まっとうな考え方のはずである。その根本のところに目を向けないで、いきなり、ただ本を読めばいい、文章が書ければいいということであれば、本や新聞は売れても、民主主義の基盤としての活字文化や出版文化は栄えないだろう。
また、このように、ことばや活字を鵜呑みにしないで、事実と照合しながら、さまざまな視点から考えてみることも言語力の重要な一部であろう。

「国語」と「日本語」
 もうひとつ考えさせられたことは、同じく法案の基本理念で用いられている「国語」という表現についてである。

 文字・活字文化の振興に当たっては、国語が日本文化の基盤であることに十分配慮されなければならない。

 当初、自民党が「日本語」としていたのを、公明党がナショナリズムの色彩が強いと反対したそうである。ナショナリズムということでいうと、私などは、むしろ「国語」のほうに感じてしまう。 「国語」を日本で使用する共通語と考えれば全く問題はないが、自分の国で使っている言語を「国語」と呼んでいる国は日本以外に、どれくらいあるだろうか? 英語で公用語はofficial languageだし、national languageといえば、国語というより民族の言語といった意味合いが強いようである。「日本語」とすれば、世界の数千に及ぶといわれている言語のなかの1つとして相対的に捉えることができるし、学校で学ぶ教科としても、子どもたちは日本語文化を相対的に学ぶことができていいと思うのだが、そのあたりのことは、きっと人によって感じ方はさまざまだろう。

 それにしても、つい数年前に4月23日の「子ども読書の日」が出来たと思ったら、今度は10月27日が「文字・活字文化の日」になるらしい。次々に法律を作って、いろんな記念日が出来ることは、はたして喜ばしいことだろうか? まじめに取り組んでおられる方には申し訳ないと思いつつも、正直なところ、うんざりしてしまう。そういえば、全国SLAでは、6月11日を「学校図書館の日」に定めている。今度はいっそのこと、肥田美代子議員に陳情して、学校図書館振興法案でも作って学校図書館の日を法制化してもらってはどうだろう?(もちろん、冗談だが)

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋を架ける仕事

2005年05月29日 | メディア

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

 【実感をもってことばを使うために形式と意味をつなぐことを「フュージョン(融合)」といいます。対立や葛藤を乗り越えるには「対話」が必要です。異質のものが共にあることが自然だという「調和の感覚」をもつことも大切です。日常的な認識のなかで別個のものとして扱われている、ことばとことば以前の経験、論理と感性、目に見えるものと見えないものをつないで自己の全体性を回復する行為、それは生きることそのものであり、その手助けをすることが私の仕事だと考えています。以下の文章はホリスティック教育ライブラリー2『ホリスティックな気づきと学び―45人のつむぐ物語』(せせらぎ出版、2002年3月)に寄せたものですが、ブログに転載するに当たって、カテゴリーとして私は迷わず「メディア」を選びました。「わたし」は私自身が世界と関わる手段であると同時に、私と関わるすべての人にひとつの世界の見方を提供している、という気持ちが強くあるからです。】

ホリスティックな気づきと学び―45人のつむぐ物語せせらぎ出版このアイテムの詳細を見る



トラウマ

 これまでの私の人生のなかで、くりかえし鮮明によみがえってくる記憶があります。
 身を寄せ合って息をひそめていた真っ暗な防空壕のなかに、さっと光が射し込んできました。大人たちのあとについて外に出てみると、まばゆいほどの明るさでした。広場の向こう側にある病院の屋根を突き抜けて、炎が音を立てて夜空を焦していました。白衣を着た大ぜいの男女が、けが人や病人を担架で次々と病院から運びだしていました。
 家にもどると、そこは焼け野原でした。ほのかな月明かりにいくら目を凝らしても、ぽっかりとあいた空間に焼け焦げた柱が一本立っていて、先端の残り火が信号機のようにチカチカしているだけでした。恐ろしいほど静かでした。人々の緊迫した声に追い立てられるように家を離れてから、どれだけの時間がたっていたでしょう。けたたましいサイレン、低くうなるようなB29爆撃機のエンジン音、さっきまでの喧騒は幻だったのでしょうか。
 たぶん、一九四五年に大阪が大空襲に見舞われたときの光景ではないかと思います。当時、私は四歳で、尼崎市に住んでいました。
 この後にかならず思い起こされる一連の光景があります。三輪車ごと頭から溝につっこんだまま動かなくなっていた遊び友達の姿。ガード下やアパートの隣の部屋で見た自殺者。地下道にたむろする浮浪少年たち・・・
 家族関係にも変化が起こっていました。「お父さん」と呼んでいた人が本当の父親ではないと分かったり、それまで育てられていた叔母がある日突然姿を消したり、死んだはずの母親が名乗りを上げてきたり・・・。幼い頭は混乱していました。私はどうしようもなく懐疑的で、ひがみっぽい人間に育っていきました。やりきれない「はかなさ」と「寂しさ」が私の心をおおいつくしていました。

癒しを求めて

 そんな私が逃げ込んだのは空想の世界でした。現実との関わりを避けて、ひたすら読書に没頭し、自分でお話を作ったりもしました。物語の世界は、現実を忘れ、未知にあこがれ、夢をいだくにはうってつけでした。そんな私を現実の世界につなげてくれたのは、その時々に親交を深めてきた友人たちでした。ある友人は、運動の苦手な私をクラスのバレーボールの選手として、いくつものサービスエースをきめられるまでに特訓してくれました。現実逃避のために宇宙へ馳せた想いを物理学に向けて、いっしょに図書館に通ったり語り合ったりしてくれた友人もいました。文学、芸術、放送技術、楽器の演奏など、移り気な私のとりとめのない関心をその時々に共有してくれた友人たちとの交流がどれだけ救いになったことでしょう。しかし、幼児期に受けたトラウマとでもいうべき「はかなさ」を受け入れて、生きる力につなげるようになるには、これから先、ずいぶん時間がかかりました。
 学校を出てからも、私は、さまざまな活動にのめり込むことによって、何かを振り払おうとしていました。一九七〇年代には竹内敏晴さんとの出会いや、つるまきさちこさんたちの「からだとことばの会」を通して、コミュニケーションの原点としてのからだに関心を持ちました。カール・ロジャーズのエンカウンターグループによって感情を処理し、共有する術も学びました。やがて、そんな活動を通じて出会った仲間たちとともに体験的な学びを深めるために「であいの会」を作り、神戸や阪神間を中心とした活動を始めました。合言葉は「もうひとつの道」、「いま、ここで」。私たちはこの運動を「カウンター・カルチャー(対抗文化)」にたいして、「エンカウンター・カルチャー(出会いの文化)」と呼びました。あるとき、そのニューズレターに私はこんなことを書いています。『原爆から原発まで』(アグネ)という本で長崎の原爆被害者である松隈さんという人の話を読んだことがきっかけでした。

(前略)

 小説家や詩人ならもっとうまく当時の様子を描き出したかもしれない。もし表現力が未熟なために状況がうまく伝わってこないという人がいるとすれば、その人は効果的に描き出されたものにのみ受動的に反応することしかできない人なのだろう。ここに引用したことばは、まぎれもなく松隈さんがひとりの生活者としての立場でその場の全状況の中から主体的に選び取ったものなのだ。私たちに必要なのは、このことばから松隈さんの「悲しみ」を自ら感じ取ることのできる感受性を持つことであり、そのとき始めて「悲しみ」を乗り越えるきっかけを松隈さんと共有できるにちがいないのだ。
 であいの会の「表現の教室」でぼくが「下手な人あるまれ」と言うとき、それは上手を目指すことでも開き直ることでもなくて、洗練された表現手段を持たない人の中にうずまくどろどろしたものを噴出させ、未分化なものの中からその人の思いを感じとり引き出していくことから始めたいという気持であった。
(中略)
 いまこの場で起こっていることに対して充分な感受性をもって対処していくことが本当に生きているということなのだろう。(「自己を燃焼できないことが問題だ」一九七七・五)

ライフ・イズ・ビューティフル(抽象作用に気づく)

 一九六〇年頃、イデオロギーに導かれた学生運動についていけず、かといって体制が作り出す状況に埋没することもできないでいた私が拠りどころにしたのは「一般意味論」でした。ことばがいかに認識に影響するかを知り、ことばの魔術におちいらないで生きることを教えてくれたからです。それから二〇年を経た一九八〇年、二週間にわたる泊まり込みのセミナーがあると聞いて、カナダのトロントから列車で二時間ほどのオンタリオ州ロンドンにあるウェスタン・オンタリオ大学まで出かけていきました。そこは森の中に建物があるような静かで美しい大学でした。セミナーが始まって三日目頃だったでしょうか。「聴き方」のセッションで、いつものように静かな環境の中で耳を澄ましていると、いきなり堰を切ったように今まで聞こえなかった音が私のからだの中に流れ込んできました。一人ひとりの呼吸や、ほかの部屋にいるらしい人の気配、建物の外の話し声、鳥のさえずり、そのほか、ブーとかシューとかいう遠くの音が私のすぐそばで鼓膜をふるわせていました。それからというもの、世界は一変して表情豊かな姿を見せてくれるようになりしました。何かを見ても、いままで意識しなかった形や色の微妙な違いにまで気づくようになり、「美しい夕焼け」は、ゆったりと変化するダイナミックな光のドラマとなりました。
 理論と体験を交えたこのセミナーで私は「抽象作用」ということを学びました。人はたえず抽象作用をしている、というのです。事実の記述、記述についての記述、推論、理論と、抽象のレベルが高くなるにつれて、だんだん現実から遠ざかり、より包括的になるとともに細部が見えにくくなっていきます。ものごとを考えるときには、抽象のレベルの混乱を起さないように、より現実に即して考えるようにしましょう。そして、ことばの外へも出てみましょう。事実として語られたことは事実そのものではありません。自ら体験し、感じたものもひとつの抽象でしかありません。ことばの呪縛から解放されてきらきらと輝いてみえた世界も、より大きな「できごと」の一部を抽象しているにすぎないのです。「できごと」はプロセスであり、時空を超えてつながっています。つまり、この世の中に「絶対不変」というものはなく、すべては仮のもの。「はかなさ」や「無常」も、この世のありようそのものであって、人は、それを受け入れることによって活き活きと生きられる。セミナーの終わり頃になって、やっと、そのことに気づいたとき、私はグループのなかで止めどなくあふれる喜びの涙をぬぐうことを忘れていました。
 一九八四年、サンディエゴで開かれた一般意味論の国際会議で私は「一般意味論と般若心経」について語りました。

橋を架ける仕事

 私は大学を出てから三八年間、ずっと高校で英語を教えてきました。その間、ここまでお話してきたような私の経験を意識的に教室に持ち込むことはしませんでした。しかし、振り返ってみると、英語の指導にも学級経営にも、その時々の私のありようが何らかの影響を及ぼしていたことはたしかです。教師としての私を支えてきたのは、まぎれもなく過去六〇年間この世に存在し続けた「わたし」そのものでした。

 「橋を架ける仕事」とでも言えばいいでしょうか。ことばとことば以前の経験、論理と感性、目に見えるものと見えないものをつなぐ手助けをすることが私の仕事だと考えています。実感をもってことばを使うために形式と意味をつなぐことを「フュージョン(融合)」といいます。対立や葛藤を乗り越えるには「対話」が必要です。異質のものが共にあることが自然だという「調和の感覚」を持つことも大切です。そんなことが生徒たちにうまく伝わればいい。そう願いながら日々を過ごしています。

 最後に、私がある年の卒業生に贈ったメッセージの一節を引用して、この物語にいちおうの区切りをつけることにしたいと思います。

 諸君は、これからの人生で次々に課せられるテーマにどう答えていくのか。未知を為そうとするとき、不安はさけられない。とすれば、やはり自分を信頼するところから始めるほかないだろう。人生経験は少なくても、いま、自分が持っているものを駆使して精いっぱい生きること。模範解答や「べき」「べからず」にとらわれず、自分に問い、命のリズムに耳を傾けること。
 若い諸君に求められているのは深い洞察に支えられた軽やかな行動である。背筋を伸ばし、肩の力を抜いて、大きく深い息をひとつして、さあ、未知に向かって踏み出そう。テイク・イット・イージー。

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言語が消えると、智恵が消える (「世界の環境ホットニュース[GEN] 489号」から転載)

2005年03月10日 | メディア
(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)

 メールマガジン「世界の環境ホットニュース[GEN] 489号」(05年03月10日発行)は、3月7日付けのAPの記事 Knowledge Fades As Africa Language Die を次のように訳して紹介しています。言語が滅ぶと民族の記憶が消え、その民族が継承してきた智恵や文化を子どもたちに伝えることができなくなります。この記事を通して、言語と文化(=人の生き方)との密接な関係を再認識し、私たちの言語は、はたして衰退していないといえるか、振り返ってみたいと思います。

いま世界に6000ほどの言語があり、その半分は今世紀中に消滅するだろうと予想されています。世界の言語のおよそ3分の1はアフリカで使われている言語で、その中でも200の言語は、話す人が500人未満になってしまいました。いま世界の人口の半分は、たった8つの言語を使っているだけだそうです。つまり、中国語、英語、ヒンディー語、スペイン語、ロシア語、アラビア語、ポルトガル語、そしてフランス語。

言語が消滅すると、ただ単にその言語を使う人がいなくなるというだけではありません。その言語が保存していた色々な知恵が言語と共に消滅します。環境に関連していえば、生態系を守るノウハウが失われ、生物多様性にも深刻な影響がある、と国連の会議で報告されました。

たとえばインドネシア・カリマンタンの中央部にあるカヤン族の居住区域では、「立ち入り禁止の森」を設けています。これはある種の森林保護政策で、その年に保護する地域を長老たちが宣言し、区域内の狩猟や採集を禁じて、森を守ってきました。カヤン族の使っている言語はオーストロネシア語族に属するカヤン語です。この言葉を話す人はすでに1万人ほどになっていて、言語の衰退とともに伝統的に伝えられてきた習俗が滅びる可能性があります。

また、アフリカ・マダガスカルの対岸に位置するモザンビークには、23の言語があります。ここで伝統工芸の指導をしている人は、若者たちは親が使ってきた言語を使わなくなったと嘆いています。植民地時代に導入されたポルトガル語が共通言語となり、それぞれの民族の独自性や伝統の基礎となって来た言語が滅び去ろうとしている。まもなく民族の記憶が消えてしまうことでしょう。チョピ語を使っているこの人は、先祖から伝わってきた話し言葉による文学を子どもたちは聞くことができなくなるだろう、という。また、教育に携わっている人は、言語の衰退とともに、民族が持っていた伝統的な文化が急速にほろびつつあると話しています。

(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)