昨年の秋から続けている連続セミナー「ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる」の第3回は2月11日(祝)に「東京賢治の学校 自由ヴァルドルフシューレ」で演劇の指導をしておられる高田豪さんを講師にお迎えして「からだ・こえ・ことばのつながりを探るレッスン」をおこなう。高田さんは、竹内敏晴さんの指導を受けて竹内演劇研究所「からだとことばの教室」のスタッフとなり、その後、人間にとっての表現の意味と可能性を探るレッスンをつづけてこられた方である。(詳細はチラシをダウンロードしてご覧ください)
(ことばは)まず何よりも話しことばであり、話しことばは人間の発するこえが分節化され整理され記号化されたものである。そしてこえとことばに本源的な活動をあたえているのは、まさに人間のからだの生命行為そのものである(竹内敏晴著『ことばが劈(ひら)かれるとき』p. 135、ちくま文庫、1988)
「劈く」とは、刃物で喉を裂いて開くさまをあらわす。耳が不自由で発声も不明確であった竹内さんにとって、ことばを発することは苦行であった。障害をもっているというコンプレックスのために周囲の人を避けるようになり、コミュニケーションは、ますます困難になる。竹内さんは、やがて演劇と出会い、演技する場をそれまで閉ざされていた可能性をひらく場として、自らのことばを劈いてゆく。『ことばが劈(ひら)かれるとき』の初版は、1975年に思想の科学社から出版されている。この本は、70年安保を経て、戦後日本がよりどころとしてきた価値や制度や枠組みが大きく問いなおされた時期にあって、自らの教師としてのあり方を問いなおし、新たな生き方を摸索していたわたしに具体的な方向と方法を示してくれた。
40年ほど前のことだが、英語教授法の研究会でわたしがおこなった公開授業を竹内さんがみてくださった。舞台演出家であった竹内さんは、授業の中身や進め方ではなく、授業中のわたしの姿勢と声との関係に触れて、その場で実際に指導をしてくださった。わたしの声は子どもたちに届いていたか。声の大小や滑舌の問題ではない。わたしの声が子どもたちの裡にどのように響き、子どもたちをどのように動かしたか。それは、ことばになる以前のからだの動きの問題であり、からだをとおした子どもたちとのかかわり方の問題でもあった。それ以来、わたしはコミュニケーションの原点としての「からだ・こえ・ことば」のつながりに関心をもつようになった。
わたしたちのからだと精神は、まわりの世界と交わりながら育まれ、観念も情動もことばも、からだと世界が交わるところから生まれてくる。いま、わたしたちがよりよく生きるために必要としているのは、世界と直接ふれあうことのできる開かれたからだではないか。そのからだの動き(=生命行為)によって、わたしたちは、手で相手の方に触れたり、一緒に車を引いたり、あるいはキスを交わしたり殴り合ったりするのと同じように、他者に働きかけて他者を変え、そのことによって自分も変えてゆく力のあることばを劈くことができる。そのことを、わたしは竹内さんのレッスンから学んだ。
今回のセミナーは、わたしたちが成長とともにことばを身につけてきたプロセスを振り返ってみる機会にもなるかもしれません。ゆっくり温泉につかって日常生活で疲れたからだを癒すように、ことばが生まれる源泉に触れて身も心も回復する旅に出てみませんか?
なお、今回のレッスンを受けるにあたっては、あらかじめ『ことばが劈(ひら)かれるとき』のほかに、雑誌『環vol.14』(藤原書店、2003)の特集『「読む」とは何か』に掲載されている竹内敏晴さんと松居直さんの対談も一読しておかれることをお勧めします。そして、さらに関心のある方は、以下の2冊も古い本で絶版になっているかもしれませんが、なんとかして見つけてお読みになることをお勧めします。
(1) 林義男著『こえとことばの科学』(鳳鳴堂書店1957、改訂版1979)
(2) つるまきさちこ著、安高純代(イラスト)『からだぐるみのかしこさを‐新たな人間関係の創出へ向けて』(野草社1980、新泉社1981)
ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫) | |
クリエーター情報なし | |
筑摩書房 |
ついでに下記の本もお読みくだされば、このブログ記事の背景が書かれています。
Here Comes Everybody 足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性