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ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

ホリスティックな知とは何か?(「ホリスティックな知を育む学校・図書館をつくる」第2回の開催を控えて)

2012年10月15日 | 「学び」を考える

 

 「ホリスティック」という概念を一言で定義するのは容易ではないが、仮に世界や人間の営みを全体的なつながりのなかで捉える観点としておく。一人の人間を「あたま」と「こころ」と「からだ」をバラして別々に捉えるのではなくて、それらが一つにつながって相互に作用しあっている全体を見る。そんな全体としての人間は単独で存在しているのではなくて、他の人や社会、モノや自然など、自分をとりまく環境と相互にかかわりあい、影響しあいながら成長していく。人間だけではなくて組織についても同じことが言える。学校は地域や社会と切り離しては成り立たないし、学校図書館も学校という「学びの共同体」とかかわりなく語ることはできない。そう考えると、学校図書館専門職は、他の専門性をもった教職員とともに学校という地盤を耕し、生徒と教師の豊かな学びと成長を促す肥沃な土壌をつくりながら、自らの専門性を育てていくことも、その使命としなくてはならないだろう。そこで問われるのは、子どもの現実とどう向き合うか。型にはまった学びに子どもを当てはめるのではなく、一人ひとりの子どもを、その全体を見据えて元気づけ、学ぶ意欲を高めるにはどうすればいいか。そんな観点から、学校と学校図書館のあり方を問い直したい。そう考えて連続セミナー「ホリスティックな知を育む学校・図書館をつくる」を企画した。第1回目は、菊地栄治さんをお迎えして、大阪の二つの高校の実践をとおしてホリスティックな教育改革について考える機会をもった。

 第2回目は、10月21日に「多様な教育を推進するためのネットワーク」代表の古山明男さんをお迎えする。古山さんは、生徒を選ばない塾を経営し、さまざまな若者の現実と向き合うなかで、学校の外から学校や教師の現実を見つめてこられた。そこから見えてきた学校が抱える問題を指摘し、すべての子どもを一元的な価値観・学力観に適合させるのではなく、一人ひとりの子どもに応じた多様な学びを実現できるように学校システムの改革を呼びかけておられる。

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ブログ:「変えよう! 日本の学校システム 教育は制度がネックだ

 今回は、オルタナティブ教育にも詳しい古山さんに「ホリスティックな知とは何か?」というテーマで、いまご自身が一番表現したいとおっしゃる、シュタイナーとクリシュナムルティの人間観と教育思想を語っていただく。人間の全体性を深く見つめて独自の教育を創りあげた、この二人に共通するのは時代に対する危機意識であり、自由で愛に満ちた人を育てることが真の社会変革をもたらすとして学校をつくったことである。ひるがえって私たちの現実を見つめなおしてみると・・・制度や職務の壁でがんじがらめになって、ひたすら「学力」のみを追い求めてきたひずみがあらわになった我が国の学校と社会に、はたして脱出口はあるのだろうか? 学校を内側から変えていくことはできるのだろうか? 学校図書館が単に本や居場所を提供することを越えて、子どもの全体的な成長と学びの場になるには、どうすればいいか。そんなことを考え、話し合う機会にしたい。

 現時点での参加希望者は20名。まだ教室に余裕があるので、今からでも参加申し込みをしていただけます。

「ホリスティックな知とは何か? シュタイナーとクリシュナムルティ」
日時:10月21日(日)13:30~15:30
会場:立教大学池袋キャンパス 14号館6階601教室
参加費:1000円(学部生は無料)

申込holisticslinfo@gmail.com

 また、講演終了後には、この秋に開館した新しい立教大学池袋図書館の見学ツアー(無料)もあります。参加を希望される方は、セミナー参加申込と同じアドレスにご連絡ください。

 

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「『希望をつむぐ高校』という希望」をつなぐために(連続セミナー第1回を振り返る)

2012年10月08日 | 「学び」を考える

  

 「『希望をつむぐ高校』という希望」と題した菊地栄治さんの講演を聴いて一週間を過ぎた。そのとき、その場で感じたことも新鮮だが、少し時間を経て身体に沁み込んだものを取り出してみると、あらたに気づくこともある。

 菊地さんと大阪府立松原高校のことを知ったのは、2000年の秋に出版された『進化する高校進化する学び 総合的な知をはぐくむ松高の実践』(学事出版)を読んだのがきっかけである。そこに描かれた生徒たちの姿を見ようと、さっそくその翌年の課題研究発表会に参加した。学校内のいたるところ(校舎内だけでなく中庭の一角にも大きな人だかりができていた)でさまざまな形態の発表と活発な議論が行われていることに目を見張った。見慣れた高校生の発表とはどこかが違う。よくある優等生のパフォーマンスではない。身の丈に合った課題について、しっかりした問題意識をもって、自然でイキイキとしたことばが交わされていた。当時、現職の高校教師だった私は、とてもうらやましくて、その後も何度か訪問し、授業や「産業社会と人間」のコンペティションなどを見せていただいた。学校を出て社会に働きかける活動も盛んだ。生徒有志が地元の中学校などに出向いて、エイズについて学び合う場をつくっていく。合言葉は「知る・考える・動く」、その語尾を取って「るるく」と呼ぶ。この活動については『るるくで行こう!―新たな学び(ピア・エデュケーション)のスタイルで性と生を考える』(学事出版、2003)や『今あなたにも伝えたい―高校生がつくったエイズ・ピア・エデュケーションのーと』(せせらぎ出版、2005)で詳しく知ることができる。高校生たちが、自らの「問い」を大切にしながら、学校の外の機関と協働して現実社会の切実な問題に取り組むなかで自分たち自身を育てていく。そんなピア・エデュケーションという学びのスタイルは、これからの時代に求められる学びのモデルになるだろう。

「るるくめいと」が拓く新しい学びのかたち

 そんな松原高校の活動の背景には日頃からの教師集団の地道な取り組みがあることは容易に想像できたが、今年の春に『希望をつむぐ高校』(岩波書店、2012)が出版され、大阪府立布施北高校の取り組みと共に、その舞台裏の一端を具体的に知ることができたことは嬉しいかぎりである。そこには「できる」生徒を集めて大学進学率を上げるのではなく、受け入れた生徒一人ひとりの現実と向き合い、生き抜く意欲と力をつけようとしている教師集団の姿が生々しく浮き彫りにされている。彼らは、「肩幅の狭い」教師を支え、「声を小さくされている」生徒に目を向けて、包み込んでいく。それは、競争と管理の構造の中で自らの責任回避のために問題の責任を比較的弱い立場の他者に押し付けて攻撃し、排除していくという、日本の社会や学校現場に蔓延している「いじめの構造」と対極をなす取り組みである。

 2000年以来、松原高校に関心を寄せてきた私が、とりわけ魅かれるのは、研究者として松原高校や布施北高校を見つめてきた菊地さんの姿である。菊地さんは松原高校や布施北高校にとって、指導・助言をする理論的指導者でもコンサルタントでもなく、単なる観察者でもない。現場に自らを投入し、その実践に学びながら、それを理論づけ、伝えることによって松高の実践を支えてこられた。著書などを通して知るかぎり、実践者である教師と外部の研究者(観察者)である菊地さんとの関係は、切り離されずに交わり合っている。松高の実践を高める仲間(同志)の一人と言っていいだろう。そこには、研修会や実践記録などでよく見られるような現場の実践発表と高みから語る研究者の関係ではない、新たな関係が編み出されている。

 こうして菊地さんが大阪のローカルな取り組みに関わりながら浮き彫りにしてこられたホリスティックな学校改革の枠組みは、他の学校の教師や親や地域の人たちをも力づけることができるのではないか。それぞれの地域や学校の現実に即した学校改革の取り組みが芽生えることを期待したい。

 では、学校図書館は、ホリスティックな学校改革の担い手となりうるのか。ただ教師や生徒の求めに応じて資料を提供し、一部の生徒の居場所として機能しているだけでは、学校改革の主体的な担い手とはなりえないだろう。生徒の現実と向き合いながら、自らの専門性をも問い直していくことが求められているのではないだろうか。

 最後に、菊地さんの講演から数日して寄せられたご感想のなかで、私が共感した一部分を紹介させていただきます。

☆ 学校と社会との橋渡しをし、社会を生きていく力を育むこと、学校内の異質な他者同士を包摂すること、各教科・単元などに細分化・分断された知から総合的な知の理解を可能にすること。一般的な学校教育にあまり期待できない、このような役割を担うのに、学校内で最も適しているのが学校図書館だと考えています。
(中略)
 そうなることができなければ、どんなに「良い」学校図書館を作ろうと学校図書館員が孤軍奮闘したとしても、一部の児童生徒にとってのみ居心地のよい居場所(つまりそれ以外の児童生徒を意図的にではないにせよ「排除」してしまっている場所)、もしくは学校内の「無料貸本屋」のような場所になる未来しか残されていないのではという危惧を感じました。

☆ 「専門性さえ捨て去る用意ができている」という言葉には、ショックを受けましたが、さて、自分には専門性ありや?と問いがふりかかってきます。

 

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『希望をつむぐ高校』という希望(報告、その2)

2012年10月03日 | 「学び」を考える

 

 

 

 

 

 

 参加者の皆さんは、菊地さんのお話をどのように聞いてくださったのでしょうか。これまでお寄せくださったアンケートなどへの回答から主なものをひろって、まとめてみました。(取り上げるのは短いコメントのみとし、まとまった論考は省かせていただきます)

印象に残ったことば

・「できないことを否定しない」「マイナスの感情を受けとめる」

・「打たれ弱い子」「異質なものを受け入れることが苦手な子」「すぐに諦めたり、切り捨ててしまう子」がたしかに多いと感じる

・「生徒を見る」という言葉が多く出てきた

・「しんどい」「肩幅の狭い」「声を小さくされている」など身体に関する表現が多いことに気づいた

・「専門性さえ捨て去る用意ができている」という言葉には、ショックを受けたが、さて、自分には専門性ありや?と問いがふりかかってくる

・「できないことにたいしてどのように対処していくか」これは教師に求められている最大の仕事

 身体感覚につながることばは具体的かつ切実で、メタファーとしての広がりもあります。「見る」という行為も大切ですね。次回の講演のテーマにもなっているクリシュナムルティも、既知のものを注意深く「見る」こと、あるがままのものを「見る」ことが対象の全体を把握するために大切だと言っています。

学校の取り組み

・学力中心の進学高校でも実践可能なのか? 被差別の生徒たちがいない学校であったら、このような取り組みができただろうか?

・教員集団が生徒のためにまとまって動ける力、継続していける力はどこから来るのか?

・協力し合う教員集団が形成されることの重要性をひしひしと感じた

・教師自身が変化を求められている

 ちなみに、菊地さんは『希望をつむぐ高校』(pp.161-169)の中で、二つの高校の取り組みを「ホリスティックな組織づくり」(☆)として、旧来の処し方(★)と対比させて整理しておられます。ここでいう「ホリスティック」とは、菊地さんによれば「近代のありようを批判的・反省的に捉えなおす視座」であり「人間と社会を多元的に深く把握することを通して本来のつながりやバランスを回復させる暫定的な座標軸」となるものです(★が旧来の処し方、☆がホリスティックな組織づくりです)。

(1)★望ましい生徒像にもとづく組織目標 ⇔ ☆「生徒の現実(切実さ)」からの出発

(2)★「優秀で均質な生徒」のかき集め ⇔ ☆「生徒のエンパワメント」の実践

(3)★少数の教職員層による目標設定 ⇔ ☆コンセプトを共有するプロセス

(4)★他人任せの改革 ⇔ ☆一人ひとりが試みる改革

(5)★一元的な教育社会のための持続不可能な改革 ⇔ ☆公共圏をつくっていく持続可能な改革

(6)★(他者を通して)自己変容しない改革 ⇔ ☆自己(相互)変容する改革

図書館のあり方

・学校図書館は社会にたいして、どのような立ち位置や行動をとるべきであろうか

・二つの学校の実践の中で図書室が果たした役割は?

 図書館の人たちを前にして、ほとんど話にでなかったということは、推して知るべしというべきでしょう。だからこそ、私たちは、このセミナーを企画したといってもいいかもしれません。私が松原高校を訪れていた2001年頃の図書室は、蔵書数も少なく、ずいぶん草臥れた感じの本が孤独感を漂わせながらつまらなそうに並んでいました。課題研究などの資料相談は公共図書館にお世話になっていると先生方から聞いたことがあります。その頃とくらべると、ホームページで見る松原高校の図書館は見違えるほど整備されていて、きっと課題研究などに役立つ資料提供もできているのでしょう。しかし、学校図書館の真の課題は、その先にあります。司書教諭や学校司書が教師たちとの同僚性を維持しながら、共に子どもの学びと成長を促す教育活動にどのように関わっていくか。学校図書館が子どもや教師の現実に向きあい、生きることの豊かさを軸にした学校改革の担い手となるために備えるべき条件とは何か。セミナーの最終回は、このテーマで大いに語り合いましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

連続セミナー「ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる」第2回のご案内

10月21日(日)13:30~15:30

ホリスティックな知とはなにか? シュタイナーとクリシュナムルティ

講師:古山明男(「多様な教育を推進するためのネットワーク」代表)

場所:立教大学池袋キャンパス14号館601号

参加費:1,000円

参加申し込み:メールで holisticslinfo@gmail.com まで

☆ 講演終了後、セミナー参加者を対象に立教大学池袋図書館の見学ツアーを行います。参加を希望される方は、セミナーに申し込まれるときに「図書館見学希望」とお書き添えください。(参加費無料、定員20名)

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アートとしての教育―クリシュナムルティ書簡集
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『希望をつむぐ高校』という希望(「ホリスティックな知を育む学校・図書館をつくる」第1回の報告)

2012年10月03日 | 「学び」を考える

 

 大型の台風17号が近づきつつあった9月30日の午後、連続セミナー「ホリスティックな知を育む学校・図書館をつくる」第1回「『希望をつむぐ高校』という希望」が予定通り立教大学で開催されました。台風の動向が気になるところでしたが、質疑応答も活発に行われ、予定の終了時間を10分以上も過ぎて終了しました。ただ、遠方から来られた皆さんは、電車の中に長く閉じ込められて、帰宅が深夜あるいは日付が変わってから帰宅されたようです。本当にお疲れさまでした。

 さて、講師の菊地栄治さんは、ご自身の著書『希望をつむぐ高校』(岩波書店、2012)で取り上げられた大阪府立松原高校と同布施北高校の学校改革の取り組みについて、豊富な映像や逸話を交えて分かりやすく語ってくださいました。その要点を私なりにまとめれば、両校の実践に共通しているのは、「しんどさ」を切り捨てないで「声の小さな子ども」や「肩幅の狭い教師」を包み込み、支えながら学び合い、成長しあう場をつくってきたことであり、その根っこには人権教育の歴史の中で培われてきた、優しさをチカラにして生き抜くことへの信頼があったということではないかと思います。

 では、この大阪という地域に根ざした「しんどい学校」の取り組みから私たちは何を学び、それぞれの現場でどのように活かすことができるのでしょうか。それを考える手掛かりとして、菊地さんが話された二つの視点を紹介したいと思います。一つは、若者の現実をとらえる視点です。菊地さんは「希望劣化社会」という病を生み出している青少年の「いま」を以下のようにまとめておられます。

①  浅い自己肯定感と満足感と諦め・・・ ‐あふれるモノに馴らされて‐

②  自然体験と社会体験の「浅さ」 ‐「弱さ」「痛さ」「悲しさ」を取り除くことの「脆さ」‐

③  思考停止と社会参画からの疎外 ‐TVと塾の共通性:答えのある問いと思考の脆弱化‐

④  静かなる自閉とにぎやかなる孤独・同調圧力 ‐消費社会のコミュニケーション‐

⑤  時間感覚の変質と募る「イライラ感」 ‐急かされる子どもたち・若者たち

⑥  就職難と雇用環境の変貌 ‐人を育てない企業の増殖‐

⑦  「できないこと」の排除と本質的な問い ‐剥ぎ取られる虚構と直線的成長の妄想‐

⑧  中間集団の解体と市民性の未成熟 ‐政治離れと「現実とかかわる力」の剥奪‐

 このどれをとっても、若者だけでなく私たち大人の問題でもあるように思えてなりません。つまり、世の中全体を覆っている問題として捉えて自分たちの生き方を問い直していくべきではないか。そして、この状況を打開するために求められるのは、異質な他者との対話を通してつながりを再構築していくことではないでしょうか。しかし実際の世の中では、それとは逆の方向に向かう力も強く働いています。学校教育でもそのことをしっかりと見極めておく必要があるでしょう。菊地さんは、公共圏をないがしろにする教育改革にたいしてホリスティックな変革をもたらす改革を提唱されています。それは以下のような方向に向かうものです。

①  単純思考から複雑思考へ

②  「上澄み掬い」の改革から生徒のエンパワメントの保障へ

③  答えに合わせる学力から持続可能な自己&社会形成力へ

④  資源としての地域活用から地域づくりの協働主体へ

⑤  抽象化・個人化された「問題」から具体的で切実な「課題」へ

 事態の複雑さから目をそむけて問題を単純化し、安易な解決策を求めようとしていないか。学力向上のためにひたすら「教える」ことに追われて、子どもの学び成長する意欲、生きる意欲を高めることをおこたり、あるいは削いでしまっていないか・・・この5つのポイントに照らして日頃の実践を問い直し、軌道修正の目安にしてはどうでしょう。学校図書館もしかり。というより、このような方向を目指すのが学校図書館の本来の姿ではないでしょうか。少なくとも私は、そう思って学校図書館の活動を見つめて応援してきたつもりです。

 ホリスティックな学校改革に向かって松原高校や布施北高校では具体的にどのような取り組みが行われてきたのでしょうか。菊地さんの著書に詳しく書いてあります。

希望をつむぐ高校――生徒の現実と向き合う学校改革
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岩波書店

松原高校のホームページ

菊地さんが講演の中で見せてくださった映像の一つTsu-mu-gu《松原高校卒業生からのメッセージ》も松原高校のホームページで見ることができます

Tsu-mu-gu《松原高校卒業生からのメッセージ》

そのほか、松原高校の実践がよくわかる本

進化する高校 深化する学び―総合的な知をはぐくむ松高の実践
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学事出版
るるくで行こう!―新たな学び(ピア・エデュケーション)のスタイルで性と生を考える
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学事出版

 

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子どもの自発的な学びと成長の広場をつくる(学校図書館自主講座at神戸のご案内)

2012年07月21日 | 「学び」を考える

 

 7月27日(金曜日)の午後に神戸で「学校図書館自主講座」を開きます。学校教育と学校図書館について、その時々のテーマに関心をもった人が自由に参加できるささやかな勉強会ですが、2010年から不定期に開催してきて今回で9回目になります。学校図書館に関わっていなくても、たまたま今回のテーマに関心をもってくださる人がおられたら、どうぞ、ご連絡ください。

 私自身も学校図書館の専門家ではなくて、教師のOBとして参加しています。教室で教科書を中心として(それを補充・発展させる問題集や参考書、その他のメディアを使って)教師主導で行われる授業だけでなく、子どもが自分の興味や関心にしたがって自発的に学ぶことができる、社会に開かれたもう一つの学びの場が学校の中に存在することに大きな意味があると考えるからです。また、学校図書館は、クラスや学年を超えて子どもたち同志が交流したり先生方と触れ合うこともできて、そこから新しい活動を生み出す広場にもなります。私は、そのような学校図書館学校図書館の活動が、制度疲労を起こしている現在の日本の教育システムを学校の内側から補修しながら変えていく契機になるのではないかという、ささやかな期待をもっています。

 さて、7月27日の学校図書館自主講座(9)は、以下のような内容です。

日時:7月27日(金)13:30-17:00

場所:神戸市勤労会館(三宮駅からすぐ)409号室

プログラム:

・イギリスの学校図書館レポート(山本敬子 甲南高等学校・中学校司書)

・学校教育のシステムと学校図書館とのかかわり(足立正治ほか。参加者による話し合い)

 以上、前半は、まず、今年の3月にイギリスの学校図書館を訪問された報告を聞き、その後、その他の諸外国の事例も参考にしながら学校の教育システムと学校図書館のかかわりを探りたいと思います。

(休憩)

・ホリスティックな教育観と学校図書館(足立正治 大阪樟蔭女子大学非常勤講師)

 休憩をはさんで後半は、子どもの知的側面だけでなく感性や身体性も含めて調和のとれた人間としての成長を援助するという観点から、私たちの教育実践を見なおしたいと思います。

問い合わせ・参加申込:

HCEkobe@gmail.comまたは左欄の『メッセージを送る』を利用してください。

 夏の暑い盛りですが、午後のひと時を、これからの学校教育と学校図書館について語りあって過ごしましょう。平日の午後で恐縮ですが、もしも夏季休暇がとれるようでしたら、旅行を兼ねて遠方からの参加も歓迎いたします。

<参考文献>

古山明男『変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない』(平凡社、2006)

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平凡社

松戸宏予「イギリスの特別なニーズ教育と学校図書館の関わり:社会背景と学校図書館調査事例をもとに」(図書館情報メディア研究 3 ( 1 )  , pp.89 - 120 , 2005-09-30 , 「図書館情報メディア研究」編集委員会)
『カナダ・アメリカに見る学校図書館を中核とする教育の展開』全国学校図書館協議会 (2006/03)

カナダ・アメリカに見る学校図書館を中核とする教育の展開
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全国学校図書館協議会

『北欧に見る学校図書館の活用』全国学校図書館協議会 (2007/04)

北欧に見る学校図書館の活用
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全国学校図書館協議会

『シカゴ・ボストン・ニューヨークに見る探究学習を支える学校図書館』全国学校図書館協議会(2009/07)

シカゴ・ボストン・ニューヨークに見る探究学習を支える学校図書館
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全国学校図書館協議会

『オーストラリアに見るコミュニケーション力を培う学校図書館』全国学校図書館協議会 (2011/05)

オーストラリアに見るコミュニケーション力を培う学校図書館
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全国学校図書館協議会

白井京「韓国の学校図書館、改革への多様な試み」

Youth-Serving Libraries in Japan, Russia, and the United States
日本、ロシア、アメリカの学校図書館

Youth-Serving Libraries in Japan, Russia, and the United States
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Scarecrow Pr

フィンランドの学校図書館の動向

A Good School Libraries in Finlandフィンランド学校図書館協会作成の学校図書館モデル)

 ちなみに、私は、2002年以来、ヘルシンキ大学のユリア・エンゲストローム教授の活動理論の考え方を学校図書館の活動に活かすために、「学校図書館ジャムセッション」という自主研修の形で過去6回にわたって実践・提唱してきましたが、2011年になってフィンランドの学校図書館における実証的研究が相次いで発表されました。2010年にエンゲストローム教授が来日されたときに尋ねたときには、学校図書館の実践はフィンランドよりも日本の方が優れていると聞いていると言っておられたことを考えあわせると、感慨深いものがあります。
 
以下は、その2011年に発表された活動理論にもとづく二つの実証的研究です。学校の教育実践に影響を及ぼしている「学校文化」の発展的変容と生成に学校図書館がどのように関わるかをテーマにしています。

SCHOOL LIBRARY: A TOOL FOR DEVELOPING THE SCHOOL’S OPERATING CULTURE

Kurttila-Matero, Eeva; Huotari, Maija-Leena; Kortelainen, Terttu. “A New Operational Culture: The Case of the School Library in the Information Society Project in the City of Oulu, Finland”.Global Perspectives On School Libraries. Marquardt, Luisa; Oberg, Dianne eds. De Gruyter Saur, 2011, p.57-70, ( IFLA publications, 148).

Global Perspectives on School Libraries: Projects and Practices (Ifla Publications)
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Walter De Gruyter Inc

 

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『「主権者」は誰か』と『あたらしい憲法のはなし』

2012年05月03日 | 「学び」を考える

 

「主権者」は誰か――原発事故から考える (岩波ブックレット)
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岩波書店

 この一年間、原発事故にたいする政府や東電の対応を通して市民の生活がいかにないがしろにされているかが、はっきりと見えてきた。昨日も紹介した日隅一雄さんの『「主権者」は誰か』(岩波ブックレット)は、私たちが主権者として振る舞うことを制限する制度やシステムの問題点を明らかにし、改善策を分かりやすく整理してくれている。原発事故を題材にしているが、本書の軸になっているのは、戦後すぐに使われた中学1年生の社会科の教科書『あたらしい憲法のはなし』(文部省)である。日本国憲法の精神と内容をイラスト入りで分かりやすく解説したもので、以下のように、ところどころ肝心なところが『「主権者」は誰か』に引用されている。

 「国を治めてゆく力のことを「主権」といいます」「この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます」

 『あたらしい憲法のはなし』は、1947年5月3日に憲法が公布された直後の同年8月2日に発行されたが、朝鮮戦争の始まった1950年に副読本に格下げされ、1952年には姿を消した。私が中学に入ったのは1953年なので、残念ながら、この教科書を知らない。だが、現在は著作権保護期間が過ぎているので、復刻版やネットで読むことができる。たとえば、青空文庫版は無料で提供されている。

『あたらしい憲法のはなし』

 内容は、一 憲法、二 民主主義とは、三 國際平和主義、四 主権在民主義、五 天皇陛下、六 戰爭の放棄、七 基本的人権、八 國会、九 政党、十 内閣、十一 司法、十二 財政、十三 地方自治、十四 改正、十五 最高法規の15項目で構成されている。このうち六と七を渡辺知明さんの朗読をポッドキャスティングで聞くことができる。

六 戰爭の放棄

 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。・・・

七 基本的人権

くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけただれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き生きとしげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。・・・

 このように血の通った話し言葉で書かれた日本国憲法の解説は、いま読んでも抵抗なくすっと心に沁み込んでくる。

 さて、日隅さんは『「主権者」は誰か』を以下の文で結んでおられる。

 私たちが主権者として振る舞うために、「思慮深さ」を身につけたうえ、積極的に政治に参加していかなければ、この国は変わらず、また取り返しのつかない「何か」が必ず起こるだろう。

 政治とメディアのリテラシーを身につけるために、学校教育の在り方を考え直さなくてはならない。まずは、『「主権者」は誰か』と『あたらしい憲法のはなし』を中学や高校の副読本として使ってみてはどうだろう。

 

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人々の声が響きあうとき(主張から熟議へ)

2012年02月26日 | 「学び」を考える

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昨年311日の震災・津波・原発事故からまもなく一年が経とうとしている。だが、差し迫った問題でありながら、現在も結論や合意形成の糸口さえみつからない問題も多い。定期点検のために止まっていた原発の再稼働を容認するか否か、放射線濃度の高い地域を除染して住民の帰住を促すか別の土地への移住を進めるか(子どもたちを疎開させるか除染をして地元で育てるか)、放射線を含んだ瓦礫を地方に分散して処理すべきか否か・・・住民や国民の間で意見が対立し、分断や差別意識さえも生み出している状況をどうやって打開すればいいのか。

218日の朝日新聞朝刊「私の視点」にスタンフォード大学ジェームズ・S・フィシュキン(James S. Fishkin)さんの「討論型世論調査 エネルギー選択で活用を」という記事が出ていた。「討論型世論調査」とは、世論調査の回答者のなかから希望者に討論会に参加してもらって、討論前と後の世論の変化を見るものだ。参加者は、バランスのとれた資料を読み、相反する意見をもつ専門家の意見を聞いて、議論を重ねたうえで自分の結論をだす。フィシュキンさんは、今、日本の政治家が本質的な議論を避けて結論を出せないでいるエネルギー選択の問題について討論型世論調査を行ってはどうかと提言しておられる。

3.11以降、原発やTPPといった意見の分かれる課題を取り上げて市民の議論をとおして政治家の意思決定に影響を与えようという機運は高まっている。中沢新一さんや宮台真司さんたちが先日立ち上げた政策提言ネットワーク「グリーン・アクティブ」もまた、「対話の会議」(コンセンサス会議)をその主要なツールとして用いるという。(その第一回目の会議が「除染」をテーマに214日に行われ、その様子がYou-Tubeで配信された。その報告は「グリーン・アクティブ」のサイトに掲載されている。)

こうしたなか、昨年4月に翻訳出版されたフィシュキンさんの近著『人々の声が響き合うとき 熟議空間と民主主義』(早川書房、2011が、こうした討論型世論調査や熟議型民主主義について考えるうえで参考になる。

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義
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早川書房

どこかバフチンがドストエフスキーの作品をとおして論じた「多声性」(『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫、1995)を彷彿とさせるタイトルだが、原題は”When the People Speak: Deliberative Democracy and Public Consultation(2009)である。原著の「発言する(speak)」が「声を響き合わせる」と翻訳されているところに注目したい。民主主義社会では、一人一人が自ら発言し自分の考えを主張することが大切なことはいうまでもない。しかし、それが単なる自己主張に終わり、説得力やディベートの優劣によって決着をつけるだけでは現実の問題は解決しない。問題について参加者一人一人が学び(知識を得て)、公平に考えて話し合った結果が政策に反映されることが大切である。

はたして、このような熟議型の民主主義(Deliberative Democracy)は日本の社会に根づくのだろうか。これまで、西欧流の個が確立していない日本人は自分を表現することが不得手だといわれ、私を含めて多くの人が自らの政治的立場を主張することを躊躇してきた。大勢に順応し、影響力の強い声にしたがい、強いリーダーシップに任せることで、波風を立てないで生きていく習慣を私たちが身につけてしまったとすれば、たしかに主体的関与の姿勢が欠如している。だが、その一方で、他者との関係性のなかで自らの意見を形成していく姿勢は熟議に適しているといえないだろうか。他者の声に耳を傾け、他者の考えに照らして自分の考えを吟味する。その意味で、「発言する」ことと「声を響き合わせる」こととは一体の関係にある。

熟議民主主義の素地を固める教育の在り方も問われなくてはならない。先般、立教大学で行われた情報リテラシーの連続講座に講師としてお招きした小玉重夫さんによれば、イギリスの学校で2002年からカリキュラムに取り入れられているシティズンシップ教育では、「政治的リテラシー」を身につけさせるために論争的な課題(issue)について子どもたちが争点を明確にして活発な議論を行うことが求められている。教師は専門家の科学的知見をかみ砕いて子どもたちに伝え、議論を促すコーディネーターとしての役割を担う。その際、議論が偏らないように、必要に応じて適宜、次のような形で介入することが奨励されているという。

・中立的なチェアマンとしてふるまう

・少数派の立場を擁護することでバランスをとる

・教師自身の意見を明確に述べる

1225日のブログ記事を参照)

賛否両論があって結論を見いだせない問題や立場によって利害が異なる問題をどうやって解決するか、その際に自分がどのような立場に立つか。それは政治問題にかぎらず、私たちの人生や日常生活のさまざまな局面で私たちが迫られるチャレンジであり、そういった課題に立ち向かう術(すべ)を子どもたちが身につけることは学校教育の中核をなすべきであろう。私はこれまで、「読書」「思考」「探究」といった活動の在り方について、個人の内面に焦点をあてた従来のアプローチを、対話や多声性(=拡張性)を基盤として他者との関係性のなかでとらえなおす必要があると考えてきたが、この点については、これからも折にふれて発言していきたい。
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教師の主体性が問われている(映画「かすかな光へ」と「“私”を生きる」に寄せて)

2012年01月22日 | 「学び」を考える

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8日の日曜日、仲間を誘って待望の映画「かすかな光へ」(監督・森康行)を見た。研究者として実践者として学びの原点を問い続けてこられた大田尭さんの戦中戦後の歩みと93歳の現在も続けておられる活動を追ったドキュメンタリー映画である。

大田尭さんの著書は何冊か読んでいたが、実際に映画をみて強く印象付けられたのは、学びを生まれながらにして有する権利(基本的人権)ととらえて、学びのありようを生命体がもっている特徴のなかに見出そうとされたことである。その基本は生物の多様性にある。人はそれぞれ違って生まれてきて、他の生命体や自然との関わり合いのなかで、自らの意志によって選びながら変わっていく。そうした人間が生まれながらに備えている「自己創出力」を存分に発揮して、子どもたちが主体的に学び成長できる環境・条件を整えることが家庭、学校、地域社会における親、教師、大人の役割ということになる。

映画は、これまで大田さんのことを知らなかった人たちにも新鮮な感動を呼び起こしたようだ。あらためて、神戸での自主上映を実現してくださった実行委員会の皆さんに感謝し、その労をねぎらいたい。

 

いま、学校では教師自身の主体性と生き方が問われている。大阪では君が代条例や教育基本条例が取りざたされ、この16日には、入学式や卒業式で日の丸に向かって立ち君が代を斉唱するという校長命令に従わなかった東京都の公立学校教職員の懲戒処分をめぐる訴訟の上告審で最高裁の判決がでた。一般的にいえば、職務命令に従わなければ何らかの処分を受けるのは当然である。だが、その職務命令そのものが教師個人の思想信条に反するものだった場合、自らの良心にもとづいて、あえて職務を遂行しないという選択をした人たちは、はたして教職員として不適格といえるだろうか? 指導力がないわけでも教師の専門性が欠落しているわけでもない、まして暴力など反社会的な行為をしたわけでもない。そんな教師たちを行政は、どうして処分しなくてはならないのか? 東京都で職務命令に従わずに処分を受けた3人の教師の実像を追ったドキュメンタリー映画「“私”を生きる」(監督・土井敏邦)が、今、渋谷のオーディトリウム渋谷で上映されている。大阪では、28日から十三のシアターセブンで上映される。映画に登場するのは、元都立三鷹高校校長の土肥信雄さん、元中学校教諭の根津公子さん、小学校教諭の佐藤美和子さん。16日の最高裁判決は、行き過ぎた処分にたいして一定の歯止めをかけるものだったが、根津さんは繰り返し処分を受けたとして敗訴となった。処分取り消しを求めている土肥さんの裁判は、30日に東京地裁で判決が言い渡される。

国旗と国歌が果たす役割を私自身は全面的に否定するものではない。だが、かつて「日の丸」と「君が代」が軍国主義日本の象徴として使われ、多くの日本人を戦争に駆り立て、近隣諸国の人々にも多くの犠牲を強いてきたことを想うと、私のように多少とも戦争の経験を記憶にとどめている者には、簡単に割り切れない複雑な心情が残る。戦争を知らない若い人たちにとっても、自分たちの祖父母が経験した歴史的事実にたいする想像力をもっておくことは、自分たちの国の未来を選択するためにも必要だろう。

一つの立場、価値観を「教え込む」ことが教育ではない。子どもたちが、他者とかかわり、多様な考え方や価値観に触れて自ら考える。そうして自分の生き方を選択し、これからの社会を担う大人として成長するのを促すのが学校の使命である。そのために権威や大勢に流されず自らの思想信条にしたがって主体的な生き方を選んでいる教師の存在は不可欠である。

 

映画「“私”を生きる」

 

東京:2012114日(土)~23() オーディトリウム渋谷

大阪:2012128()217日(金)シアターセブン

 

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「釜石の奇跡」を生んだ、主体的に生きる力

2012年01月20日 | 「学び」を考える

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 片田敏孝著『みんなを守るいのちの授業―大つなみと釜石の子どもたち』(NHK出版)125日に発行される。

みんなを守るいのちの授業―大つなみと釜石の子どもたち ( )
片田敏孝著
NHK出版

311日、釜石市の小中学生約3000人のうち津波の犠牲になったのは5名だった。釜石市全体では1300人が亡くなっていて、近隣の町でも多くの子どもたちが犠牲になっていることなどを考え合わせると驚異的な生存率だ。釜石小学校では184人の児童全員がすでに下校していたが、一人の犠牲も出なかった。それどころか、子どもたちは幼い兄弟や老人を助け、近所の大人たちに避難を呼びかけて、多くの命を救った。釜石市は、片田敏孝さん(群馬大学大学院教授)の指導のもと、8年前から津波防災教育を行っていた。この本は、釜石の子どもたちが学んできた、この授業と震災当日の行動を同世代の子どもたちに伝えるために書かれているという。 

これまでにマスコミやブログなどで紹介されているところでは、この授業は、避難の3原則を基本にして、子どもたちが自然と向き合って主体的に自らの命を守る姿勢を身につけることをめざしている。

この3原則について片田さんがは月刊『致知』2011年8月号「釜石の奇跡は、かくて起こった」を寄稿されていて、その一部が下記のブログに転載されている。
「防災のプロが説いた“避難三原則”」 片田敏孝(群馬大学大学院教授)

ここでは、その核心部分を、あえて孫引きさせていただく。(『致知』のバックナンバーの入手については出版社の公式サイトを参照されたい)

(以下引用)
・想定にとらわれるな(ハザードマップを信じるな)

「ハザードマップはあくまで想定にしかすぎない。 相手は自然なのだから、どんな想定外のことも起こり得る。先生が大丈夫と言ったから安全だ、といった 受け身の姿勢でいては絶対にダメだ」と伝えた。

・その状況下において最善を尽くせ

・率先避難者たれ

もし“その時”がきたら、他人を救うよりも、まず自分の命を守り抜くことに専心せよ、という意味である。

・・・

ただし、この三原則で述べられていることは多くの子供たちにとって受け入れ難いものでもある。それまで先生の言うことや教科書に書かれてあることは正しいと教えられてきたのに、資料を配られて、いきなり「この地図を信じるな」と言われる。混乱を招いてしまうかもしれないが、想定にしかすぎない資料を見て安易にそれを鵜呑みにしてしまう人間の弱さに気づかせ、災害に向かい合う姿勢というものを持たせるのである。「率先避難者たれ」も、それまで教わってきた倫理観からすると大きく逸脱しているかもしれない。自分だけが助かればよいのかという捉え方になってしまいがちだからだ。

・・・

「人間はいざという時に、逃げるという決断がなかなかできないものだ。例えば、非常ベルが鳴った時に逃げ出す先生を見たことがあるか。ベルの意味合いは分かっていても、『ええ、本当に?』と、誰もその情報をすぐには受け入れようとはしない。皆が疑心暗鬼になってはいるが、いまがその時だとは思えずに、周りをキョロキョロ見ている。“初着情報の無視”とも言うべきこの人間の習性を打ち砕くには、同じことを意味する二つ目の情報を与えなくてはいけない。だから君が逃げるんだ。・・・君自身が逃げるという決断をすることで皆を救うことができるんだ」そして、逃げるという行為がいかに知的で、自分を律した行動であるかを言って聞かせるのである。このように、彼らには地震や津波の“知識”を与えたわけではなく、防災へ向かい合う“姿勢”を与える教育を行ってきた。

 (引用終了)

 

117日に放送されたNHKクローズアップ現代「子どもが語る大震災(2)ぼくらは大津波を生きた」では、311日の釜石小学校の子どもたちの行動を検証しながら「危機を乗り越える主体性」「想定にとらわれない判断力」に焦点を当てていた。番組に出演された片田先生は、言い伝えられている「津波てんでんこ」とは、自分だけが助かればよいということではなくて「自分の命は自分で守るという家族内の信頼関係」のことであること、「主体的な姿勢があってこそ、知識が有効に作用する」ことなどを指摘しておられた。

防災教育にかぎらず、生きる力を育む教育そのものの在り方を問い直すヒントを片田先生の実践に読み取ることができる。

3.11が教えてくれた防災の本〈1〉地震
片田敏孝
かもがわ出版

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自らの命を守る教育を!(阪神淡路大震災から17年目をむかえて)

2012年01月17日 | 「学び」を考える

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阪神淡路大震災から17年になる。今年は、東日本大震災で被害を受けた人々と共に、やりきれない悲しみを分かち合うことになった。その間に新潟県の中越地方で起きた大地震に見舞われた人たちのことも忘れられない。毎年、この日に震災の記憶を振り返り、そして、また新たな自然災害が起こるたびに私たちは防災対策や備えを問い直してきた。それでも、未曽有の災害が起こる。自然の驚異の前に人は立ち尽くすほかないのだろうか。

人智は無力ではないと信じたい。過去の経験を風化させないで、これから起こりうる災害に備えるために教育の果たす役割は大きい。その意味で、阪神淡路大震災の後、兵庫県立舞子高校に全国で初めて環境防災科が設置され、優れた教育実践を重ねてきたことは高く評価されるべきだ。しかし、環境防災科を設けている高校は今も全国にただ一つである。できれば各都道府県に一校、少なくとも各地方に一校はあって地域環境に即して防災に関する人材の育成と地域への普及活動を担えればいい。いや、それよりも全国すべての学校で子どもたちが自らの命を守るための防災教育を実施すべきだ。

舞子高校環境防災課の科長として防災教育の必修化を訴え続けてこられた諏訪清二先生のことが、今朝の朝日新聞の「ひと」欄で紹介されている。

”専門家や震災体験者を訪ねて話を聴くことからはじめ、情報の取捨選択、災害発生の仕組みといったカリキュラムを手探りで作り上げた。”

昨年311日に釜石を津波が襲ったとき、市内の小中学校では児童生徒が教員の指示を待つことなく率先して避難し、ほぼ全員が主体的に自らの命を守った「釜石の奇跡」について・・・

”釜石では「奇跡」が起きたのではなく、教員も含め、自ら考え臨機応変に行動する力が日々の防災教育で培われていたのだと思っている。「覚えさえすれば点が取れる教育では命を守れない。今回の震災が教えてくれたことです」”

 

「防災教育って何?」諏訪清二)

高校生、災害と向き合う――舞子高等学校環境防災科の10年 (岩波ジュニア新書)
諏訪清二
岩波書店
夢みる防災教育
クリエーター情報なし
晃洋書房

 

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龍と生きる(年の始めに考えたこと)

2012年01月08日 | 「学び」を考える

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 遅ればせながら、年末年始に考えたことをランダムに振り返って、私にとっての、この一年の出発地点を確認しておこうと思う。

 毎年、初詣は家から近い人丸神社か大山寺と、その年の干支にちなんだ神社かお寺の2か所にお参りすることにしている。今年は、2日に人丸神社、3日には奈良の明日香まで足を延ばして岡寺に参詣した。岡寺というのは所在地からそう呼ばれている通称で、正式には龍蓋寺という。この地を荒らして農民を苦しめていた龍を開祖の義淵僧正が法力で封じ込めたことに由来するといわれている。改心した龍は本堂の前にある龍蓋池に眠っていて、池の中央にある石の蓋を揺らすと雨を降らせると言い伝えられている。雨は農民にとって恵みだ。しかし、4日の「たねまきジャーナル」(MBSラジオ)に出演した玄侑宗久さんは「辰」に雨かんむりをつけると「震」になると言っておられた。昨年の311日以後に降った雨は、地域によって空気中の放射性物質をあつめて地中に浸透させ、決して恵みにはならなかった。
 昨年は辰年に先立って、さまざまな「震」に見舞われた年だった。東日本を襲った地震と津波、福島原発の事故ばかりでなく、ユーロの危機、アラブの春、ウォール街占拠といった出来事が世界を揺るがし、大阪の橋下維新も日本の政界にとって激震となった。「震」は鬱積したエネルギーの発露だともいえる。龍に蓋をして閉じ込めておくだけでは、いつどんなときに暴れだすかもしれない。そのエネルギーを活かして生命を育む恵みの雨を降らせる英知を私たちは手にできるのだろうか。

 

 年をまたいだ元旦の目覚めは爽快だった。ベッドから起き出した身体が冷え込んだ朝方の空気に触れて一瞬引き締まった感じが心地よかった。前夜、床に就くときは、ちがっていた。昨年、国の内外で起こったさまざまな出来事が、かつて経験した空襲や震災などの記憶と重なって重苦しい気分に包まれていた。課題は何ひとつ解決していないどころか、世界は崩壊の一途をたどっているように思えた。
 
一夜のうちに事態が急変したわけではない。もしかしたら31日も爽やかな一日だったのではないか、と気づく。そういえば、行きつけの蕎麦屋で食べた年越しそばは、つくづく美味いと思えたし、その帰り道に高台から明石海峡と淡路島を望む風景も素晴らしかった。食べなれた蕎麦の味も見なれた風景も私という人間も劇的に変わっていないのに、感じていることはいつも新鮮だ。そのおかげで、人生に飽きることも絶望することもなく71年間も生きてこられた。紆余曲折や失敗の多い人生だったが、否応なく巻き込まれてきたさまざまな状況や課題にも、なんとか向き合い、耐え、乗り越えてこられた。人は生命力が枯渇しないかぎり、暗黒のなかにあっても光明を見いだすことができるはずだ。龍は、そんな生命力の象徴なのかもしれない。
 
大事な局面で自分の生き方や閉塞感を打開する道を探るときには、まず、ことばにならない自分の裡なる声に耳を傾けることだ。自分の身についていない他人の論理に引きずられたり、いつの間にか刷り込まれてしまった観念にとらわれていては行き詰まる。結果が悪ければ悔いが残るし、良くても心から喜べない。そればかりか、人として成長もしない。苦境にあっても新鮮な感覚でイキイキと生きるために日頃から身体感覚や生活感覚を磨いておこう。自分の裡からよどみなく湧き上がってくる生命の感覚を抑え込むことなく、大切に育みながら生きて行こう(と心がけているのだが・・・)。

 
このところ七尾旅人さんの唄に魅かれている。肌からしみ込んでくるような声で深い共感を誘うこの人の唄には、大きな声で正義を振りかざして人々を挑発している人とはちがった魅力とたくましさがある。皮膚感覚に訴えるストレートな声とことばが力になることを確信させてくれた。
のうた

のうた(語りも入れて)

縄県東村高江のうた
 

 
この一年、世間の風当たりが強かったマスメディアのなかでMBS(毎日放送)ラジオの「たねまきジャーナル」「辺境ラジオ」ほど私を元気づけてくれた番組はない。月曜日から金曜日まで(午後9時から10時まで)放送される「たねまきジャーナル」は、巷で交わすおしゃべりといった感覚でニュースを読み解く手がかりを提供してくれる番組で、とりわけ金曜日の時事川柳が面白い。不定期に放送される「辺境ラジオ」は、世の中の風潮や私たちの心の在り方を問いなおす視点を提供してくれるが、気取りもてらいもなくワイワイ言い合える雰囲気が心地いい。どちらにも共通しているのは、放送を聞いて何かを知るだけでなく自分も何か言いたくなることだ。出演者の意見に共感しても疑問をもっても、ラジオの前で思わず「つっこみ」を入れたくなるし、翌日には誰かにその話題をぶつけて議論をふっかけたくなる。そこには、関西特有の(?)歯に衣着せぬ開放的な批判精神が息づいている。
 
昨年の暮れは、この二つの番組の年末特集に釘付けになっていた。25日の深夜に放送された「辺境ラジオ~聖夜に2011年というこの目茶苦茶な1年を振り返る」(MBSラジオ)は、いつものように気取りもてらいもなくワイワイ言い合える雰囲気が心地よかったし、30日の夕方530分から1230分までMBS(毎日放送)ラジオで放送された「たねまきジャーナル」の年末スペシャル「人生、変わった2011」は、6時間45分におよぶ放送を携帯ラジオのイヤホンをつけたまま部屋の片づけをしたり散歩に出かけたりして最初から最後まで聞いた。
その一部は番組のサイトからダウンロードして聞くことができる。
たねまきジャーナル」年末スペシャル「人生、変わった2011
前大阪市長 平松邦夫さん
ジャーナリスト 吉富有治さん
夫婦漫才師 おしどり
俳優 山本太郎さん

出裕章さん

辺境ラジオ」のポッドキャスト


 さて、私自身は、これまでに書いた思いを抱きながら、これからも社会を正気に保つ「ことば」と「学び」を問いつづけようと思っている。その実践の現場としての学校教育と学校図書館のはたらきを問いなおすことが中心になるだろう。とりわけ、学校図書館にかかわって学校教育を問いなおそうとしている人たちから学ぶことは多い。この一年もまた、そんな人たちとともに子どもの成長にかかわる私たち大人の在り方・生き方を問いつづけることになるだろう。

ちなみに、当面は下記のようなことをやっています。関心のある方は、ご連絡ください。
続講座「情報を評価し、判断する力をいかに育むか」(第5回)
128日(土)午後1時~5時(終了後、懇親会あり)
立教大学池袋キャンパス 太刀川記念館第1会議室
学校図書館自主講座
25日(日)午後130分~5
神戸・長田勤労市民センター あじさい

その他、お問い合わせ・ご提案・講座や講演の依頼など、何なりと下記までメールをください。
masa-sem@goo.jp
なお、下記の講座は、すべて大人向けで、おもに出前で行います。
「やりなおし英語」「絵本で学ぶ英語」「読書カフェ」「クリティカル・シンキング(思考力)」など。

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異質な「他者」との関係を築く(小玉重夫さんに学ぶシティズンシップ教育)

2011年12月25日 | 「学び」を考える

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1217日、連続講座第4回「情報リテラシーとシティズンシップ」で、講師の小玉重夫さんは、政治教育の立場から情報リテラシーを政治的リテラシーと重ね合わせて話してくださった。

イギリスでは、政治哲学者バーナード・クリックらが1998年に政府に答申した「学校における民主主義教育とシティズンシップの教育」(通称クリック・レポート)にもとづいて、2002年からシティズンシップ教育が学校のカリキュラムに取り入れられている。クリック・レポートでは、シティズンシップの構成要素を「社会的道徳的責任」「共同体への参加」「政治的リテラシー」とし、なかでも「政治的リテラシー」を養うことが重要だとされている。そのために学校教育では、論争的な課題について子どもたちが争点を明確にして活発な議論を行うことが求められる。教師はコーディネーターとして、以下の3つのアプローチを偏りなく組み合わせて子どもたちの議論を活性化することが奨励されている。

・中立的なチェアマンとしてふるまう

・少数派の立場に立つことによってバランスをとる

・教師自身の意見を明確に述べる

 このあと、小玉さんは、日本におけるシティズンシップ教育の流れを概観し、国家(官僚・行政・立法)と国民を(いわゆる「お上」と「下々」という)上下関係に位置づけて義務の遂行や権利の保証が行われてきた従来の公共性から、「市民」と国家が対等な関係を築いてゆく新しい公共性への転換が必要だと話された。そのような新しい公共性(市民性)を養うには「科学・技術・情報の市民化」にむけたカリキュラム・イノベーションが必要である。「科学の市民化」とは、アカデミズムの世界に閉じこもって自らの仕事の意味について自律的な判断ができない専門家の知見を市民の立場から社会的な文脈のなかで読み解くことであり、それは、たとえば原発の是非や放射能汚染の危険についての判断を専門家の権威にゆだねるのではなく、市民=素人が対等の立場で議論と判断に加わることを意味する。そのような市民を育てる学校は専門性の批評空間となり、教職員は専門家の知見と市民の知性を橋渡しするコーディネーターの役割を果たす。
参考図書:バーナード・クリック著『シティズンシップ教育論 政治哲学と市民』(関口正司訳、法政大学出版局、2011)

シティズンシップ教育論: 政治哲学と市民 (サピエンティア)
クリエーター情報なし
法政大学出版局

小玉さんのお話は明快で納得のいくものだ。しかし、新しい公共性の育成に向けた政治的リテラシーの教育をどのようにして現実化していくのかということになると、状況は決して楽観できないのではないだろうか。小玉さんご自身は、中央教育審議会の動向などをふまえて希望的な見通しをもって実験的なプログラムを組織しておられるそうだが、実際の教育現場で、それを押しとどめようとする目に見えない力や教師の問題意識といった現実的な課題を乗り越えることは容易ではないだろう。何よりも政治教育の普及と一般化にともなう形骸化を回避するための方法論もプログラムに組み込んでおく必要があるだろう。

私が小玉さんの著書『シティズンシップの教育思想』(白澤社、2003を手にしたのは、1994年から2002年まで携わってきた学校図書館経営から離れて、その間に知り合った人たちと新たな活動を始めようとしていた頃であった。その頃、刈谷剛彦さんによる書評が朝日新聞に掲載されたのを切り抜いて今も大事にとってあるのだが、その見出しには「異質な「他者」との関係を築くために」とある。当時の私にとって、この本は、ユリア・エンゲストロームの『拡張による学習』(山住勝弘ほか訳、新曜社、1999)とともに、学校教育における学校図書館の役割について自分の実践を振り返り、これからの方向性を考える手がかりを提供してくれたのである。

シティズンシップの教育思想
クリエーター情報なし
白澤社

つまり、こういうことだ。教科書を中心に展開される学校教育にあって、現実世界に開かれた窓として機能すること。資料・情報を提供するだけでなく、それを批判的に読み解き、一人一人の子どもが自分の意見をもてるように情報活用のプログラムを編成し実施すること。情報や人が行き交うことによって相互の変容と知的創造を促す場を生み出すこと。こうした学校図書館の活動は、まさに異質な「他者」との関係を築くことにつながるものであり、それを誰の目にもみえるように展開することが、8年間の任期中に私が取り組んできたことであった。学校を従来の公共性や専門性にたいする批評空間として位置づけるとするならば、学校図書館は、社会に閉ざされた従来の学校文化にたいする批評空間として学校の内側から「新しい公共性」に向かう教育を支えていくことができるのではないか。1217日の小玉さんの話を聞いて、その想いを新たにした。

 

こうした学校図書館にたいする私の想いの原点にあるのは、現代の社会や教育の動向に対する危機感である。よくも悪しくも「戦後教育」をまともに受けてきた私の記憶に残っているのは、戦前の教育を清算し新しい時代に対応できる人間を育てようと必死で取り組んでいた小・中学校時代の教師たちの姿である。そこには民主主義も体罰も能力別編成も混在していたが、それらを一体として受け止めて育ってきた私の裡に凝縮されて残っているのは、全体主義の脅威をいち早く察知して、抜け出そうとする・・・感受性とでもいえばいいだろうか。その点で私は小玉さんがハンナ・アレント(政治哲学)をよりどころにしていると語られたことに共感を覚える。アレントの代表的な著作に『人間の条件』(志水速雄訳、中央公論社, 1973年/筑摩書房[ちくま学芸文庫], 1994年)があるが、松岡正剛氏(千夜千冊)によれば、アレントが指摘する世界危機は次の5つにまとめられるという。

(1)戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機

(2)大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうという危機

(3)消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとする「保存の意志を失った人間生活」の危機

(4)世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえれば、世界そのものからも疎外されているという世界疎外の危機

(5)人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっているという危機

人間の条件 (ちくま学芸文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房

振り返ってみると、この5つの危機は、互いに関連しあって新たな状況を生み出しながら、さまざまに形をかえて、いまも私たちのすぐそばにあるように思えてならない。
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学びの根っこには「自ら変わる力」がある!(映画「かすかな光へ」神戸上映に寄せて)

2011年11月22日 | 「学び」を考える

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 日本社会を覆っている混迷や声高に叫ばれる「改革」の価値観におぼれそうになっていた私にとって、2009年元旦の朝日新聞(特集「学ぶ楽しさ」)に掲載された谷川俊太郎さんの詩「かすかな光へ」は、救いであった。この詩をとおして、あらためて学びの原点を見つめなおし、これから向かうべき方向を確認することができたのである。暗闇に光明を見た思いで、さっそくこのブログで紹介させていただいた(今春、自費出版したHere Comes Everybody足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性』にも採録させていただいた)が、同じ思いをもったのは私だけではなかったようだ。東京大学名誉教授で日本教育学会の会長もつとめられた大田尭さん(93歳)も、この詩に注目された一人だ。

かすかな光へと歩む/生きることと学ぶこと
クリエーター情報なし
一ツ橋書房


・・・よく考えてこの詩を読むと、この詩の勘所に使われている「なめる」とか、「さわる」とか、「すでに学びがひそむ」とか、「何故」「どうして」とか、「問いつづける」とか、こういうことを、今の学校教育の中でしっかりやっていますか? この鍵になる言葉を今、日本の教育界に向かって示し、もう一度思い起こしてもらいたい、と私は思うのです。(大田尭・著『かすかな光へと歩む 生きることと学ぶこと』p.51、一ツ橋書房、2011

 

 この詩に重ねて大田さんが語るのは、人の生涯にわたる学びの根っこには「自ら変わる力」があって、これを核心に据えなくては教育そのものが成り立たないということ。(以下、少し長い引用になりますが、ご容赦ください。) 

 

生命というものは、自己創出力、生命科学で言う己を創りだしていく力、自ら変わる力を、あらゆる生命体が持っているということ、このことを根っこにして学習ということが成立しているのだ、というのが私の考えです。あらゆる生命体が持っている「自らを自らで変えていく」能力、そういう能力が根源にあって、その力を通じて、ある段階からその動物の中に、脳と神経系の形成があり、そこから感覚運動の学習が起こるのです。ネズミを例にとれば、迷路実験にもありますように、ネズミは迷路を選んでいちばん近い道を選び解く、そういう学習をやっていく―という仕組みになっていると思うのです。ヒトには、あるいは他の動物の場合にも、傷ついたときにそれを治していく力、自分で治していく力がある。たとえばイヌでも、胃の調子が悪いときは特定の草を食べる。そうすることで治癒力を助けるすべを知っている。それはおそらく、長い時間をかけた学習の成果だと思います。進化というものは、ある意味で学習の積み重ねだと思うのです。そういう重い意味を持っているのが学習だと考えます。

  おもしろいことに、私たちはつねに、新しい外的刺激を限りなく受けることによって、その外的刺激に対応する選択を重ねていく。そういうことで、つねに変わっていっている。分子のレベルで言えば、毎秒毎分変わっているということが言えるのではないでしょうか。まして、私たちの細胞のほぼ半分は、180日のうちに変わると言われているのです。大田尭も大正7年=1918年に産まれて、そして今の老人になった。自ら変わりつづけた。そして、内的外的刺激とのかかわりの中で今ここにある。とこういうことになっているわけですが、不思議なことは、こんなに変わっても、私はまちがいなく生まれたときの私である。それが摩訶不思議だということだと思うんです。生きものというのは変わりつづけるけど変わらない。それ以外の何ものでもない。

・・・他の生き物全部を通底する生命力そのものに根っこをもっているのが学習であって、教育というものは、社会と文化の中に選ぶ余地なく産みつけられた人間の子どもたちが、その文化と社会に馴染まなければならないから、教わらなければならない、ということが起きる。けれども、いくら教えても、根っこである自己創出力、学習能力というものがその一人ひとりにユニークにあるのだ、ということの核心がなければ、それがなければ、それをはずしては教育は成り立たないのではないかと、私は思うんです。(同上、pp.52-54

 

教育史と教育哲学の研究者として一貫して学びの原点を問い続けてこられた大田尭さんの戦中戦後の歩みと教育に賭ける情熱を追ったドキュメンタリー映画「かすかな光へ」監督・森康行)の自主上映運動が各地で進んでいる。そして神戸でも、いよいよ17日から13日まで神戸アートビレッジセンターで上映されることになった。映画では、谷川俊太郎さんご自身が「かすかな光へ」を朗読されているそうだ。この機会に、映画を見て、これからの教育のありようについて、さまざまな想いを分かち合いたいと思う。この私のブログに関心を寄せてくださっている人は下記にご連絡ください。チラシやチケットの問い合わせも、どうぞ。masa-sem@goo.jp

映画「かすかな光へ」神戸上映日程

会場:神戸アートビレッジセンター

上映日程:201217()113(金)*110日(火)休館日 1日2回上映 10:00/11:35

料金:(実行委員会チケット)1,000

 「かすかな光へ」公式サイト

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放射能「安全」報道を読み解くためのテキスト(影浦峡さんの著書をめぐって)

2011年11月20日 | 「学び」を考える

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  行きつけのスーパーマーケットで産地を特定しない国産牛が「放射線検査済み」というラベルをつけて売られている。「国の暫定基準内に収まっているので、安心して買ってください」というメッセージなのだろうが、あまりにもおおざっぱだ。それでも私はその牛肉を買い求める。国の基準が安全だと信じているわけではないが、子どもたちの被曝を避け、一次産業に従事する人たちの生活を守ることに少しでも役立つのなら、ある程度の放射線が検出された食品でも進んで引き受けてもいいと思っている。東京には放射線量を表示し、国の暫定基準とチェルノブイリの基準を併記している店があると聞く。同じものでも、そのほうが、もっと「安心」して買うことができる。それでも、測定機器や測定技術の精度によって低い放射線量を検出できなかったり、不正な表示はないと信頼している店でも、なんらかの原因で正しい数値が表記されないことがあるだろう。万全を期しても間違いは起こりうる。放射線にかぎらず、私たちは、そういう不確実な世界に生きている。そんな世の中に暮らす私たちが、ともに生存できる確率を少しでも高める意思決定をするには、何をよりどころにすればよいのだろうか? 

 

戦前の反省をふまえた戦後の教育で私たちは、抽象的なことばや記号に惑わされずに、できるだけ具体的な事実に即してものごとを考えることを教えられた。直接的に事実に触れることができない場合には、なんらかの形で報告されたもの(ことば、記号、数値、映像など)をもとに判断するほかない。だが、事実を伝えることばや記号が事実を正しく伝えているとはかぎらないし、同じ事実でも立場や観点が異なれば、語る言葉もそれから受ける印象も違ったものになる。ウッカリ(無意識)にせよチャッカリ(意図的)にせよ、語られるべき事実がもれおちていたり、問題の焦点がずれていたり、さまざまなレトリックによって事実が歪んだり、ぼやけて見えることもある。報道や広告など、さまざまな言説を読み解いて適切な意思決定につなげるには、まず「事実」「事実の報告」「推論」「判断(意見)」を混同しないように頭の中を整理しておくことが大切だ。その際、抽象的な概念や専門的な知識は、類似の構造(関係性)をもつ具体的な事例に置き換えると理解しやすくなる。数学教育においても、「集合」や「量」から学ぶと数の概念を具体的に把握しやすいことに着目して「水道方式」を開発した遠山啓は、「抽象的構造はそれと同型な具体的な実例による表現によってはじめて生き生きと捉えられ,そしてその真の意味が了解されることが多い」と述べている(『代数的構造[新版]』p102、日本評論社、1998)。

3.11後の放射能「安全」報道を読み解く―社会情報リテラシー実践講座』(影浦峡著、現代企画室、2011)は、そんな認識の基本にのっとって、緻密な議論を展開している。

3.11後の放射能「安全」報道を読み解く: 社会情報リテラシー実践講座
クリエーター情報なし
現代企画室

本書は、まず、次のような枠組みを設定して新聞報道に現れるさまざまな数値や基準のもつ意味を読み解いていく。
・誰にとっても変わらない事実や状況の記述
・「専門家」による「科学的」な知見や見解
・社会的に合意されたり議論される見解
・状況や対象、行為に関する個人の判断や見解
・個人の心理的な状態

そのうえで、新聞報道における安心・安全の語りを具体的に読み解いてみせる。たとえば、520日の毎日新聞に次の記事が掲載された。

100ミリシーベルト以上の被ばく量になると、発がんのリスクが上がり始めます。といっても、100ミリシーベルトを被ばくしても、がんの危険性は0.5%高くなるだけです。そもそも、日本は世界一のがん大国です。2人に1人が、がんになります。つまり、もともとある50%の危険性が、100ミリシーベルトの被ばくによって、50.5%になるということです。たばこを吸う方が、よほど危険といえます。」(p. 81)

これを読んで、まず「100ミリシーベルトを被ばくしても、がんの危険性は0.5%高くなるだけです」という部分を「ある学校に、200人の生徒がいたとして、生徒全員が100ミリシーベルト被曝すると、生徒のうち1人は、それが理由で癌になる」と言い換えてみる。さらに、「ある学校の生徒200人につき1人を、無作為に選んで命を奪うという強迫があった」、あるいは「東京都の人口約1,300万人の全員が100ミリシーベルト被曝したとすると、65,000人が、それが理由で癌になる」と言い換えてみたら、この状況を「安全」と判断できるだろうか? そして、50%が50.5%に増えるだけなら「安心」で、「たばこを吸う方が、よほど危険」といえるだろうか? 

本書では触れていないが、そもそも、喫煙と放射能汚染のリスクを「がんで死ぬ確率」という要素だけで比較するのはあまりにも単純すぎるのではないだろうか? ちなみに、1113日にEテレで放映された「白熱教室JAPAN」第3回「想定外!?原発のリスクを考える」では、リスク評価に複合的にかかわる多様な要素を検討していて。きわめて示唆に富む番組だった。

学校の先生方には、本書を手がかりにして、ぜひ小中高生向きの教材や授業を開発していただきたいと思う。放射能にかぎらず、さまざまな報道を読み解く指導に役立てることができるのではないだろうか。

 

1029日、立教大学の公開連続講座「情報を評価し、判断する力いかに育むか」の第2回目の講師として著者の影浦峡さんをお招きして「メディアとメディアリテラシー論者と図書館:3.11後の放射能「安全」報道をめぐって」というタイトルで講演をしていただいた。

(お詫び。この後、私がその講演についていけず、論点を把握できなかった旨を記載していたのですが、それは、ひとえに私自身の集中力と基本的な知力の不足を恥じる思いで書いたものでした。しかし、あらためて読み直してみると、その意図が伝わらないばかりか、講演者に対して礼を失した内容でした。つきましては、企画に関わった自らの責任や読者に与える影響などへの配慮を欠いていたために講演者にご迷惑をおかけしたことを謝罪するとともに、この部分を掲載しておくことは誤ったメッセージを伝え続けることになると判断し、割愛させていただきます)

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原子力をどう教えるか(放射線に関する副読本を巡って)

2011年11月04日 | 「学び」を考える

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 人間は歴史的な存在である。私たちは、これまでに生きた人々が作り出した環境の中で生かされ、その環境を自ら生きることで変化した世界を次の世代に引き継いでゆく。3月11日に起こった福島第一原発の事故は、そんな広がりの中で私たちの生き方を問うことを迫ってくる。まぎれもなく私が生きてきた同時代に人類が手にした原子力は、またたくうちに社会と地球を大きく変えてしまった。放射性物質によって汚染されつづけている地球と、それに怯えて管理と隠蔽を強めていく社会を、これからどうやって修復していけばいいのか。中尾ハジメさんの『原子力の腹の中で』を語った中村百合子さんのブログを読んで、あらためて私たちが背負っている荷の重さとともに、それを克服する道は残されているという希望を感じている。中村さんのブログは、いつものおしゃべりにつきあっているうちに読む者の世界を広げ、大切なことに気づかせてくれる、その語り口に魅力がある 

 環境との相互作用をとおして個人と社会の成熟を求めていくために重要な役割を果たすのは教育である。子どもたちには、現実と向き合って生きる力をつけてほしい。そのために、3月11日の災害から学ぶことは多いはずだ。防災教育としてはもちろん、被災された人々への共感を強め、自分たちにできることを考えるきっかけにもなるだろう。とりわけ原発事故による放射能汚染は、私たちの日々の暮らしとかかわっていて先延ばしにはできない問題である。そう考えて、3.11以降の学校教育に注目してきた。各教科の授業や総合的な学習の時間でどのように取り上げられているのだろう? 環境教育やメディア教育、NIEや情報教育、学校図書館にかかわってきた人たちは、どのように取り組んでおられるのだろう? ブログや勉強会でも問いかけてみた。 
 ・災害と学校図書館
 ・3.11東日本大震災に学ぶ授業

 ・学校図書館自主講座(4 月10 日)
  「今、世の中で起こっていることから何を学ぶか」(パワーポイント)
  「今、世の中で起こっていることから何を学ぶか」(配布資料) 
 だが、震災から8カ月が経とうとしている現在も、いくつかの取り組みや実践は散見されるものの、当初思ったほどの実践の広がりはみられない。とくに原子力や放射能汚染については、教師に専門的知識が不足していることやメディアや政府から提供される情報が不確かだといった壁がある。だからといって、いや、だからこそ、子どもたちを放っておくわけにはいかないのだ。10月30日の朝日新聞に掲載された『原子力と教育―「不確かさ」を学ぶこと』と題する社説は、そんな私の思いを代弁してくれているようだ。いま学校教育に求められているのは、「放射線のリスクに向き合い、原子力のあり方を考えることは、これからの世代にこそ切実な課題である」という認識のもとに「正解が定まらないこと、不確かなことを学ばせる」ことである。
 
朝日の社説にもあるように、文部科学省は放射線に関して、小中高校生向けにそれぞれ副読本を作成した。その作成目的が文部科学省のサイトに次のように記されている。

東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故により、放射線や放射性物質、放射能(以下「放射線等」)に対する関心が高まっております。
 
このような状況においては、国民一人一人が放射線等についての理解を深めることが社会生活上重要であり、小学校・中学校・高等学校の段階から、子どもたちの発達に応じ、放射線等について学び、自ら考え、判断する力を育成することが大切であると考えます。
(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/10/1309089.htm)


 まったく同感である。だが、実際に副読本をダウンロードして読んでみると、私の期待はたちまち裏切られた。今回の事故とは切り離された形で、放射能に関する一般的な事柄を述べてあるにすぎないのだ。そのような教材を無批判に与えることは、現実に起こっていることから子どもたちの目をそらし、放射能の問題を自分たちの生活に直結するリアルな問題としてとらえることを妨げることになりかねない。副読本が、その作成意図や「生きる力」を培うという学習指導要領の理念とかけ離れた「問題点のすり替え」ともいえる内容になってしまったのは、なぜか? そのいきさつの一端を東京新聞の短い記事に垣間みることができる。

 

・・・編集に当たった専門家や教員による委員会で「事故の説明も入れてはどうか」という意見もあったが「まず児童生徒が放射線に関する基本的な知識を身に付けるべきだ」という見解が大勢を占め、一般的な放射線の説明にとどめたという(東京新聞)(20111014日)。


 学校教育を管轄する一方で原発を推進する立場にある文科省の意向を反映したということなのだろうか? 現場の教師も、この問題に主体的に取り組むことを躊躇しているようだ。読売新聞の記事は、そんな教育現場の意識を如実に伝えている。

 ・内容一新の放射線副読本、活用は手探り Yomiuri Online(2011年10月14日) 

 記事を読んで、いくつかの疑問がわきあがってくる。「放射線のメカニズム」に絞って自分たちの身の回りで現実に起こっていることから目をそらすような内容の副読本が、どうして学校現場に歓迎されるのだろう? 自ら内容を検討し、それを妥当とする根拠を示すことなく「文部科学省が作成したものなので、安心して授業で使える」と言った校長先生は、思考力と判断力を育てる(これも、また新学習指導要領の理念の一つである)教育の責任者として適格といえるのだろうか? さらに、この校長先生はどうして「中立的な」立場の資料だけを集めようとしたのだろう? 教育にとって必要なことは、問題を直視するための事実を教えて、その解釈や見解が分かれる場合は、さまざまな立場の考え方を「公平に」検討したうえで自分なりの意見をもたせることである。新しい学習指導要領は、「多様な情報を活用し、異なる視点から考え協同的に学ぶ」ことを求めているのだ(学習指導要領解説)。
 
副読本を使うか使わないか、どのように扱うかは、学校や教委の判断に任されている。だが。いまや原子力を教えることを避けることはできないだろう。だとすれば、まず教師自身が学ばなくてはならない。専門的な知識だけでなく、子どもの問題意識をどのように掘り起し、どこに焦点をあてて、どのように教えるかを検討し、できれば自ら教材を作成し、授業研究を積み重ねていくことが必要だ。出来合いの教材を使い、誰かの実践をなぞって型どおりの授業を行うだけでは、教師の教育力は向上しない。学校のなかに教師の自主的な勉強会ができて、そこに図書館担当者もかかわることができれば理想的だ。そして、その試みがそれぞれの学校の枠を超えて共有され、いっそう磨かれることを期待したい。
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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)