小さい頃から自分のまわりにもヤンキーがいました。暴走族的な人もいました。でもそーいう人は社会的な目で見れば落伍者に映るでしょう。私からするととんでもないわけです。それはみんなその人たちは口は悪いし、わがままだし、傲慢だし、短気ですぐ喧嘩するようなやつだけど、以外に仲間想いだったり
一つのことを徹底的にやったりする情熱が隠されていたりする。それは負けず嫌いという性格的傾向であるかもしれないが、ほんとうに彼らのことを知ると人生のスタートで曲がってしまっただけで、正しい方向に軌道を修正させればこんなにすごいことを成し遂げるやつらはいませんっ
やっぱり人間は根性というか気力、情熱というものが必要なんでしょうね。スピリチュアルからはまったくかけ離れた人間論理だが、このパワーは人間的表現を成す上でもっとも必要な精神であることを理解できる。
例えば頭の良い、でも無気力な人間より、馬鹿でドジだが一生懸命で根性は人の倍という人の方が実は人間的には優れているのだろう。いつの世でもやっぱり根性なのか。
自分がひとたび決めた目標に希望をもって全力で飛び込んでいく。そのエネルギー。チャンスがあったら面倒がらずにつかみとろうとするエネルギー。うーん、まっすぐに自分のしたいことに全力でぶつかっていくこと。それはある人にも言われた。
人間はパートナーのように時に寄り添いながら、反発し意見を交換する。そうやってひとつへと同化していくものらしい。その同化というのは互いに足りないものを補ったりあげたりしてお互いでひとつにまとまるもの。ひとりとして同じ人間はいないようにさまざまな意見を通して同じ方向に向かっていく。
互い違いを経験しつつ同化へと向かう仕組みが人間世界にはあるということを思っています。人間は6歳頃まで同性の親と同化するようになってるらしい。同化できなかった人が性に関する問題として現れる場合もあるとのことです。自分がなぜこの性を持って生まれたのかを理解することも大切なようです。
女性は子供を育てるということで重要視しなくてはならないことは親和ということらしい。愛情をもってスキンシップしたり、一体感や気持ちの充足を与えること。こどもにはいろんな感覚をもって愛情を与える。五感のすべてを使って遊びながら愛を与えてゆく。できそうなようで意外に難しかったりもする。
教える人、教わる人、ここには何か金儲けの臭いがします(笑)それだけじゃなくて権力的な何かも感じる。教える人の方が優位に立てるような実感を感じますもの。事実給料も高いわけですし。専門家の先生たちとかね。でも本来教育のあり方について、原始的な方法はどのよう?かを知りたい。
資本主義社会での男の立場は女のために働かざるを得ないようになってるという。おそるべきものだ。なんでもお金を稼がなければ自由がないようにするこの社会は○○だ!
自由ってなんだ!自由とはなんだ!徹底的にこだわって自由について生涯考えていくしかあるまい。人間に与えられたほんとうの自由ってなんだ!ということを問い続けたい。
テレビから昔とはまったく違って性についての表現が一切消えてなくなった。スピリチュアルについても消滅した。暴力的な表現やホラーなどは残っている。性的な表現はもっぱらそういう動画か18禁映画ぐらいだろう。性は汚いものというか野蛮なるものとして扱われているような気がする。本来神聖なもの
最近は書きたいことがたくさん増えてきた。ツイッターだけではおさまりがきかなくなってきたけれども、うまく書こうとすることは難しいのでやはり断念。とりあえずツイートしていよう。
充足、満ち足りるというものはどんなに自分のスタイルが変化していったとしても感じ続けるためにわたしたちがすることはどのようなことなのでしょうか? もし宗教行為や欲に関する行為において充足を感じられる人々はそれをし続けるでしょうが、自分が満足を得られればそれでいいのだろうか?
一瞬の歪みなく物事の真実を見極め続けることができる達人になれれば世の中をうまく渡れるようになるわけじゃないだろう。世の中は真実の世界とはかけ離れているかもしれないからだ。では真実を見極める意図はどこにあるのか?世の中をうまく渡っていくためにあるのではなく、本来の社会を形成するため
できることならば、私の言葉で感性ある人たちが触発されて何かを生み出してほしいと願わずにはいられない。
自分本来の部分が強く働く。これについては毎回のパターンで気分よく快調に事を進めているときにはどんなことをやっているのかについて注意深くあるべきであります。私は音楽を聴きながら調子よく文章を打ち込んでいるときが最高にしあわせな実感を感じられます。
この現代社会は忙しすぎて落ち着かなくて休息する時間さえ与えてはくれない。だからなのか、ひとつのところにじっとしていることを苦手とするものが多い。癒しの場所だと自分が思うところがあるならば、ゆっくりとそこに何もせずにぼーっと過ごすのも悪くはない。いつも頭を体を動かすことはない。
走っている走り続けている自分を褒め称えている人もいるかもしれない。走っている自分ってちょーかっけえとか最高!ひゃっほーい(^O^)/なんて言ってる人がいたら、大切なものを失ってしまうか見過ごしてしまうこともあります。見たくないために見ないように走り続けている可能性もありますね。
動くことは大切です。けれども、動き続けながら内観して自分を見つめる作業を繰り返すこともすっごく重要なことなのです。スピリチュアルは特別なことだけを教えようとしているわけではなく、あたりまえだけど見失ってしまうものに焦点を当てることを教えていると思うんです。まさに哲学的思考です。
スピリチュアルが中心的な要であり、宇宙の重要な叡智だとするならば、そこに人間のあらゆるものを融合させることで爆発的なものに変化するであろうと思われます。それが現代の錬金術。言葉は悪いけれども楽して幸せな人生を間違い少なく生きる方法みたいなもんだろうと思う。
何か徳をためる行為に関してはどうしても損して得とれという精神になることでしょう。けれどもきっとうまいやり方があるはずです。頭の悪い仕組みでやれば通り一遍等になるだけですからね。犠牲という言葉ではなく「奉仕」として身を輝かせてあげることが大切ですね。
お金というものを考えず、あくまでもサービスにこだわり、自分の使命などに追求することを全力で考えていたら広がっていくのかもしれない。
私は能力的なものがあるとしたら「癒し関連」。超能力てきなこともあったりしたが、それは念力による作用だとすこしだけわかった。人を癒すことは好きです。どこに問題があるか?とかどのようにしたらその人が元気になるか?を考えているときが意外に楽しかったりするような気がします。
能力者の未来予測について。もし当たっていたとしても、断定されても自分の信念に従って足掻くこと。未来は誰にも、ましてや神や霊などにも決める権利はない。自分がどうなりたいかを追求するのみだ。参考程度に聞けばいい。未来は聞かなくてよいことだ。くるものを拒まず受けるのみ