日本民族は、これからいったいどうやって生き延びるのか?

さすが 西尾氏

格調高き論調

欺瞞と偽善で戦後を繕ったのがドイツ

読みましょう

 

宮崎正弘の国際情勢解題 令和弐年(2020)2月4日

書評

不確実な時代を冷徹な洞察力で解析し、未来を予測する
  日本民族は、これからいったいどうやって生き延びるのか?

  ♪
西尾幹二『国家の行方』(産経新聞出版)

 過去三十四年間、産経新聞「正論」に書かれたコラム101篇を時系列に集大成し、一冊を編むに当たってのエッセイが冒頭を飾る。西尾氏の書き下ろし40枚である。
 おそらく新聞掲載時点で殆どを読んでいるはずだが、具体的に文章を忘れていたので、改めて読み返すと、時粧の点ですこしもみずみずしさが色あせていないことに気がついた。
文章は平明だが、その分かりやすい語彙の選択に氏のパンチの効いた表現の綾が籠められている。
それにしても101篇のコラムを編集し直してみると、そこには不変の愛国心と民族への思い、現代政治の情けなさへの哀惜、憤怒が行間からこぼれ落ちる。
 以下紙幅が限られているので、二つほど印象深き箇所を再録してみると、、

 「大東亜戦争を可能にした主役が『近代』であったことは紛れもない。日本はアジアの中で唯一、近代を獲得し得たがゆえに
、『近代戦争』に突入することが可能になったのである。そしてそれが可能であったがゆえに、戦後経済大国になることにも成功した。歴史は連続している。あの戦争は非力なアジアの一国の捨て鉢な叛逆だったのではない。反西欧、反近代のナショナリズムですべてを説明できる事態でもない。欧米と互角だったからこそ可能になった。四年にもわたる長期戦争である。単なる暴発でも、自爆でもない。現代のテロを同質視するのはあまりにも無知である。思うに、保守思想界ではこの十年余、大東亜戦争帰結として『アジア解放』が強調され過ぎた」(190p)。

 いかにも西尾氏らしく、保守思想界の主潮流には距離を置き、戦争の本当の意味を探ろうとしている。
 ともかく反省は十分、というより過分だし、償いは済んだ。謝罪の必要はもはや何処にもないのだ。
マレーシアのマハティール首相が言ったように「日本は反省ばかりしていないで前向きになれ」である。
しかし日本とは対照的な態度で欺瞞と偽善で戦後を繕ったのがドイツだった。ナチスだけが悪かったことにしてドイツ国民には責任がないとする論理的飛躍で、ドイツは戦後を生き延びた
 ドイツ史の連続性は否定できない事実であり、ヒトラーの登場には『前史』があるが、ドイツはそれを認めたがらない。

したがってヴァイツゼッカー大統領の欺瞞的な詭弁が平然と語られるのだ。
 「ドイツ史には『異常な一時期』があって、その一時期だけナチスという暴力集団に歴史が占領されたが、今は彼らを追い払って清潔な民主国家に生まれ変わったという前提」にドイツの政治家がとらわれ、その結果、政治的主張は矛盾していても何食わぬ顔でヴァイツゼッカーは日本で継ぎのような奇妙な主張を残した。
 「ドイツは十二年間だけ悪魔に支配されたが、それ以前の歴史にもそれ以後の歴史にも悪魔はいない。丁度、フランスやオランダやポーランドがナチスという悪魔から解放されたと同じように、ドイツも1945年に悪魔の憑きが落ちて、きれいさっぱり浄化されたと、そういう含みのある臆面のない主張が展開されている」(133p)

 つまりドイツ国民には道徳責任はない。背負うべきは政治的責任だと言ってのけたのがヴァイツゼッカーであり、自分の車を他人が運転して事故を起こしても、賠償責任が生じるが、「道徳的責任はとれない」と詭弁なのである。
 日本政治の現況を直視すれば、目を蔽いたくなる惨状が続いている上、真性保守とされる安部首相もどちらを向いているのか分からない。

 「たった一度の敗戦が戦争を知らない次の世代の生きんとする本能まで狂わせてしまった、というのが実態かも知れない なんとしても生きなければならないという自己保存の本能が消えてしまったとも思いたくないが、今日本は殆ど丸裸で、ミサイルを向けられると学校の子供たちが机の下に隠れるようにと防空訓練を発令する軍事的幼稚さ、非現実的内閣府通達が正気で出された」(6p)

 これで国家が存続するのか、日本民族はどうやって生き残るのか、西尾哲学は、その存在の根源を問いかけるのだ。

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