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NHK 歴史探偵「ツタンカーメン 歴史の闇に消えた少年王 その2
アクエンアテンの治世は短いものでしたが、遷都されたテル=エル=アマルナの発掘調査ではまだ若い労働者がひどく体を酷使して亡くなった事が分かってます。アマルナ時代と呼ばれますが、アクエンアテンは王と言うより芸術家や宗教家で、内政や外政に興味が無かったんですね。家族への愛情が深い人で、絶世の美女ネフェルティティを王妃にして新都に引きこもりがち。当時エジプトはあちこちに外征してましたが援軍要請にも応えず、アクエンアテンの父の代から軍司令官だったホルエムヘブは反感を抱いてたはず。なのでアクエンアテンの死後、その子供達を王名表から削り業績を自分のものに書き換えたんですね。
アクエンアテン王墓はkv55で、1907年に見つかりましたが初めはツタンカーメンの祖母のティイ王妃の墓かと言われてました。かなり異様な有り様になっており、地下の玄室に続く通路には瓦礫や土砂が投入されていて、壁画は削られ副葬品もわずか。何より異様だったのは男性のミイラなのに王族の女性用の人型棺に納められ、名を記すカルトゥーシュは剥ぎ取られ人型棺の顔が剥がされていた。ミイラはほぼ白骨化しており、骨盤が崩れていたので初めは女性かと思われましたがよく調べたら男性だった。長い間「いろいろ恨まれたアクエンアテンの墓ではないか?」と言われてましたが、DNA鑑定で特定されました。
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王としてはかなりアレだったとされますが、アクエンアテンの治世(アマルナ時代)は宗教改革だけでなく美術様式も新しくなりました。通常 王と王妃を壁画に描いたり刻んだりする時は王妃をかなり小さくするものだったけど、アマルナ時代は平等に描写されました。これはツタンカーメンの時代にさらにリアルになり、玉座の彫刻(王に香油を塗る王妃)は現代美術と変わらないっすね。アクエンアテンの壁画からはまだ赤子のツタンカーメンの顔が削り取られてますが、ツタンカーメンと王妃が仲良く狩りに出てるレリーフは等倍でとても仲睦まじそうです。
これが玉座のレリーフで、ツタンカーメンに香油を塗るアンケセナーメン王妃。ツタンカーメンの異母姉にあたり、父のアクエンアテンの妻だった時期もある。王家では直系血筋が尊ばれたので近親婚は珍しくありませんでした。
ツタンカーメンもアンケセナーメン王妃も父のアテン神オンリーの時代に生まれたので、初めはアテン神にちなんでツタンカーテンとアンケセナーテンでした。アンケセナーメンはアクエンアテンとネフェルティティ王妃の娘で、ツタンカーメンは側室の子。母はkv35で見つかった複数のミイラの1人の「若い方の貴婦人」とされますが、名はまだ確定してません。一時期はアクエンアテンの側室の1人のキヤという女性説がありました。異母姉弟にあたる若い夫婦だったのですね。
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