NHK 歴史探偵「ツタンカーメン 歴史の闇に消えた少年王 その2

 

 
 番組では触れられなかったけど、古代エジプトは祭政一致でもともと神官団に強い権限があったんすね。それが新王国時代になると王をしのぐほどになり、危機感を覚えたアクエンアテン王はそれまでの多神教をすべて廃し、アテンという太陽神ひとつだけを崇めると宣言。そして神託を受けられるのは王だけと決め、遷都も行いました。
 
 アテン神のビジュアルは↓こうで、太陽からたくさんの手が伸びてます。もともとエジプトで崇められていた沢山の神のひとつで、アクエンアテンの王妃のネフェルティティが特に奉じていたのだそう。しかし唐突に一神教に変更された神官団の反発は大きく、次に王になったツタンカーメンがふたたび多神教に戻して都も元に戻しました。即位時はまだ9歳だったので、多神教の大神官だったアイ等の意向によるものかと。
 

 

 アクエンアテンの治世は短いものでしたが、遷都されたテル=エル=アマルナの発掘調査ではまだ若い労働者がひどく体を酷使して亡くなった事が分かってます。アマルナ時代と呼ばれますが、アクエンアテンは王と言うより芸術家や宗教家で、内政や外政に興味が無かったんですね。家族への愛情が深い人で、絶世の美女ネフェルティティを王妃にして新都に引きこもりがち。当時エジプトはあちこちに外征してましたが援軍要請にも応えず、アクエンアテンの父の代から軍司令官だったホルエムヘブは反感を抱いてたはず。なのでアクエンアテンの死後、その子供達を王名表から削り業績を自分のものに書き換えたんですね。

 

  アクエンアテン王墓はkv55で、1907年に見つかりましたが初めはツタンカーメンの祖母のティイ王妃の墓かと言われてました。かなり異様な有り様になっており、地下の玄室に続く通路には瓦礫や土砂が投入されていて、壁画は削られ副葬品もわずか。何より異様だったのは男性のミイラなのに王族の女性用の人型棺に納められ、名を記すカルトゥーシュは剥ぎ取られ人型棺の顔が剥がされていた。ミイラはほぼ白骨化しており、骨盤が崩れていたので初めは女性かと思われましたがよく調べたら男性だった。長い間「いろいろ恨まれたアクエンアテンの墓ではないか?」と言われてましたが、DNA鑑定で特定されました。

 

 

 これを知ったのは図書館で見つけたグレアム・フィリップスという人の「消されたファラオ」って本で、この時はまだアクエンアテン王墓だと確定してませんでした。いろいろと恨まれていたアクエンアテン王への意趣返しの意味合いだけでなく、ちょうど飢饉や疫病も蔓延していた事から男性であるアクエンアテンを破壊の女神セクメトに模し、女性用の人型棺に納めて名を奪ったという内容。それなりに説得力がありますね。権力者が政敵のお墓を損壊することは珍しくなかったそうですが、kv55はエジプト学者が「アクエンアテン絡みならしょうがない」と述べるレベルだそう。ツタンカーメンやその兄とされまだお墓が見つからないスメンクカーラーは、父の尻拭いをさせられたような感じです。
 

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 王としてはかなりアレだったとされますが、アクエンアテンの治世(アマルナ時代)は宗教改革だけでなく美術様式も新しくなりました。通常 王と王妃を壁画に描いたり刻んだりする時は王妃をかなり小さくするものだったけど、アマルナ時代は平等に描写されました。これはツタンカーメンの時代にさらにリアルになり、玉座の彫刻(王に香油を塗る王妃)は現代美術と変わらないっすね。アクエンアテンの壁画からはまだ赤子のツタンカーメンの顔が削り取られてますが、ツタンカーメンと王妃が仲良く狩りに出てるレリーフは等倍でとても仲睦まじそうです。

 

 これが玉座のレリーフで、ツタンカーメンに香油を塗るアンケセナーメン王妃。ツタンカーメンの異母姉にあたり、父のアクエンアテンの妻だった時期もある。王家では直系血筋が尊ばれたので近親婚は珍しくありませんでした

 

 

 ツタンカーメンもアンケセナーメン王妃も父のアテン神オンリーの時代に生まれたので、初めはアテン神にちなんでツタンカーテンとアンケセナーテンでした。アンケセナーメンはアクエンアテンとネフェルティティ王妃の娘で、ツタンカーメンは側室の子。母はkv35で見つかった複数のミイラの1人の「若い方の貴婦人」とされますが、名はまだ確定してません。一時期はアクエンアテンの側室の1人のキヤという女性説がありました。異母姉弟にあたる若い夫婦だったのですね。

 
 
 このアンケセナーメン王妃の行方が長い間分かりませんでした。ツタンカーメンの死後はアイと結婚したとされますが世継ぎは生まれず、次にホルエムヘブが彼女と結婚しないと王家を継げない。アンケセナーメンはこれを嫌がり、長年の仇敵のヒッタイト王国に手紙を出したと言われます。
 
 それはヒッタイト王に宛てたもので、「息子さんの1人をエジプトに送って私の夫にして下さい。私は臣民の妻にはなりません」と書いてあった。ヒッタイト王は怪しみますが手紙はまた届き、ならばと王子のひとりをエジプトに送りますが殺されてしまう。それはホルエムヘブが察知して行ったと言われ、それ以後  アンケセナーメン王妃の名前は歴史から消えていました。ホルエムヘブによる暗殺説もあるみたい。
 
 アイと結婚したことは近代に2人の名が入った指輪が見つかっており確かのよう。けれどもかなり年の差があったはずで、王族だったのでアンケセナーメン王妃も従ったのかな。しかしホルエムヘブは王族ではないので「臣民の妻にはならない」となったよう。敵国に対して外患誘致どころではなく、ホルエムヘブが知ったなら只では済まなかったのかなぁ。
 
 少し前にも新しく見つかったお墓がそうではないかと言われましたが違っていて、DNA鑑定でおそらくそうだと言われるお墓のナンバーはkv21。1817年にみつかっていたお墓で、2人の女性のミイラの片方がアンケセナーメン王妃の可能性が高いそう。ああ何ということ、ツタンカーメンよりもずっと早くに見つかってたんだ・・・
 

 

 これはツタンカーメン王墓発見時の黄金のマスク。三重の人型棺の上にはそれぞれに花束も置かれていたそうです。古代エジプトでは葬送に花を手向けることは普通に行われていたんですって。
 

 
 これは第三の人型棺だったかな? 発掘者ハワード・カーターが感銘を受けたのは額のコブラとハゲワシに掛けられていた花輪で、矢車菊や水蓮やオリーブや柳、セリの葉で作られた小さなものです。
 
 
 野に咲く花で作られた可憐な花輪を見て、ハワード・カーターはこれはアンケセナーメン王妃が手向けたものだと思いたいと書き残してました。数多の宝物よりも美しいと思ったそう。ロマンチストですね。
 
 
 おそらくアンケセナーメン王妃だろうというミイラが見つかっていた。できれば一緒にしてあげたいなぁと思いましたね。
 
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