不思議な魅力に満ちている

青天を衝け』の描く幕末は、なかなか痛快である。

大河ドラマ幕末ものとしては非常にめずらしい。

見ていてなんだかうきうきしてくるのだ。

『青天を衝け』はそういう不思議な魅力に満ちた大河ドラマである。

特に、主人公の渋沢栄一が一橋慶喜の家臣となってからが見ていて楽しい。

一橋慶喜はやがて征夷大将軍となり、「歴史的な敗者」となることはわかっているのだが、そのことを知って見ていても、何だか楽しいのである。

痛快だったのは、たとえば、14話。

一橋慶喜が「参預会議」のメンバーを率いて公卿の中川宮を訪れ、その面前で彼らを「大愚物!」と言い切るシーンである。

「参預会議」は便宜的ながら当時の京都政局の最高決定機関であった。そこには徳川家からだけではなく、外様大名(島津久光、伊達宗城、山内容堂)も加わっている。なかでも薩摩の島津久光は裏で工作を重ねて「京都政局」の中心に居座ろうとしていた。それを知って、一橋慶喜は中川宮の前で、酒を飲んで酔った勢いで「かれらは天下の大愚物、天下の大悪党にてございます」と言い放って、その野望を砕いた。

なかなか痛快なシーンであった。

このドラマで見るかぎり、あきらかに一橋慶喜が正義で、島津久光は悪とはいわないまでも正直さに欠ける野望家であった。そこがおもしろい。

これは江戸の落語『棒鱈』や『首提灯』と同様の痛快さだ。

「江戸ッ子ってのは、御一新のときに徳川家(とくせんけ)の味方をする連中のことを言うんだぜ」とこれはある高座で聞いた落語家の言葉であるが、昔からどうもそういう気分が江戸ッ子にはあるらしい。

早い話が「江戸のことをなんもわかっちゃいねえ田舎侍が、江戸で大きな顔をするんじゃねえ」と江戸ッ子は強くおもっていて、それは落語に明確に描かれている。

 

『棒鱈』に出てくる田舎侍は琉球の歌を歌うし、『首提灯』は芝の山内で道に迷っている田舎侍が出ている(麻布に行く道がわからないらしい)。明言されてないが、その訛りからしても「薩摩の田舎侍」だろうと推察できる(芝の近くに薩摩藩邸があった)。

田舎侍は横柄で礼儀知らず、町人とみればかさにかかって偉そうにして、早い話が「いやな野郎」である。

たまたま関わりをもった江戸ッ子は(だいたい職人である)、最初のうちは頭を下げているが、その態度に腹を据えかね「なに言ってやがんでぇ、この丸太ん棒っ!」と啖呵を切る。ここが聞きどころである。

黙って聞いてりゃ調子にのりやがって、と、この田舎侍を言葉でぽんぽんぽんとやりこめるのを聞いていると、胸がすく。

おそらく安政万延のころから、江戸ッ子は寄席でこういう話を聞いて溜飲を下げていたのだろう。啖呵のうまい噺家を聞けば、令和のいまでも痛快な気分になれる。

まあ侍を相手に喧嘩を売っているわけだから(向こうは武装していて、こちらは丸腰である)どうなるかはわかったもんじゃないが(斬られたって文句は言えない)、後先のことを考えずに、啖呵を切っちゃうのが江戸ッ子で、そういうのを見るのがまたみんな好きなのだ。実際に我が身にふりかかってきたら尻に帆を掛けて逃げ出すのもまた江戸ッ子だけどね。

役者もいい

参預会議で、外様大名なのに政局の中心に居座ろうとする連中に、啖呵を切って黙らせる一橋慶喜は、江戸ッ子の熊さん寅さん(『棒鱈』の二人)のようで痛快だった。

そのあと、再び「京都政局」の中心に立とうと、薩摩は禁裏御守衛総督を狙うが、これまた一橋慶喜とその家臣によって阻止される。見ていて安心する。

ひょっとして島津久光は、何かしらのべつの思惑があって(のちに歴史的正義として語られるのとは別の「欲」があって)、そういう動きに出たのではないか、と考えさせられる描写であった。

それが歴史的事実かどうかは、この際、どうでもいい。ドラマなんだから。

でもそういう可能性を見ている者に感じさせ、自由に想像するきっかけを与えてくれるというのは、ドラマとしてとても素敵だとおもう。たしかにそういう可能性を考えてもいいわけだから。

役者もいい。

渋沢栄一の吉沢亮と、渋沢喜作の高良健吾がとても溌剌としている。

一橋慶喜の草薙剛は、殿様らしいおっとりしたところに、聡明さと、鋭さを持ち合わせていて、何とも強く惹かれるお殿様である。

もっとも江戸ッ子らしいのが平岡円四郎の堤真一だった。「おかしろい」とよく言っている姿が江戸者らしくてとても素敵だった。亡くなってしまったけど。

みんな突き抜けて明るい。

幕末だからって、未来を変えようとするやつだけが明るいわけではない。正しいと信じることを行っている連中もまた明るいのだとこのドラマは教えてくれる。何だか元気になってくる。

「慶喜vs.薩摩」の構図

もうひとつおもったのは、幕末の面倒な政局を「慶喜」対「薩摩」という図式に一元化すると、ここまでわかりやすくなるのか、ということである。

これは、たまたま、主人公の渋沢栄一の行動時期に関係している。

もともと武州深谷で栄一は暮らしていたので、最初の10話余りは、その武州の田舎の生活が描かれ、さほど躍動的ではなかった。

その栄一が、尊皇攘夷の熱に浮かされ、いろいろあって従兄の喜作とともに京都へ出てきてきたのが文久三年の秋である。時すでに、京都から急進派長州勢力が駆逐されたあとだった。

だから『青天を衝け』では、面倒くさい“長州藩勢力”がほぼ描かれない

幕末の風景から長州藩を抜くと、ここまでわかりやすくなるのか、というのが『青天を衝け』をみていて鋭く感心したことである。

長州は歴史的にただのノイズだったのかもしれない、とまあ、それは言い過ぎだとはおもうけど、でもふと、そこまで飛躍して考えるほど、目新しい風景である。

ひょっとしたら、一橋慶喜にとっても、長州勢力は、「ただ無茶なことをする政治的な素人集団」だったのかもしれないとおもって、なんだか「おかしろく」なってくる。素人だからこそ怖いということもあるだろうし。

京都から追い出され、仲間が池田屋などで殺されたら、いきなり藩を上げての武装軍で京都に押し寄せ、砲弾を持って天皇の住まいを攻めるというのは、日本史上に残る暴挙である。のちに薩摩に引っ張られて徳川政府を倒して、新政府の中枢に居座ったから、この長州の暴挙はあまり悪しざまに語られてないが、どう考えても史上最凶級に無茶苦茶である。

これで京都は、天明の大火以来76年ぶりの大火事に見舞われた。

この奇妙な連中の内部事情は「幕末のぎりぎりの政局」にはほとんど関係ない。
『青天を衝け』ではほぼ触れられない。

だからとてもわかりやすくなった。

一橋家から見えない存在

長州系はもちろん、「中央の政局(この時点ではほとんど京都政局)」に関係のない志士は『青天を衝け』では取り上げられない。

もともと吉田松陰は登場しないし(名前は出ていたが)、吉田稔麿もあつかわれていない。久坂玄瑞の影も見えない。高杉晋作はたぶん出現しないし、坂本龍馬も中岡慎太郎も出てこないだろう。

彼らは一橋家の内部から見えない存在なのだ。

それでずいぶんすっきりする。

長州藩士として出てきたのは井上聞多と伊藤俊輔だけで、これは彼らが明治10年代の政局の中心に位置し、渋沢栄一と明治以降に深く関係するからだろう。

新選組は登場する。土方歳三が渋沢栄一(篤太夫)と話をするシーン(20話)はとても素敵だった。近藤勇はまだ出てこずに、土方だけが登場するのは、おそらく戊辰の戦いのおりに渋沢喜作(成一郎)と深く関わるからだろう。

登場する人物が整理されており、とてもすっきりしている。

徳川政権の中枢にいる一橋家にとって、敵はただひとつ「薩摩」だけであった。
この構図がとてもわかりやすい。

リアルにそうだったのだとおもわれる。

まだ楽しみには続く

慶応三年の末になって、もし薩摩の動きを封じ込めることが出来たら、「大政を奉還」しても、慶喜を中心とした別の政体が樹立できたはずである。

でも薩摩にとっても「敵は慶喜」であった。

慶喜に狙いを定め、慶喜の正義は封じ込められてしまった。

江戸に急ぎ帰った彼は、のち、長い隠居生活に入ることになる。

そのあと、栄一の活躍が始まる。

とにかく『青天を衝け』では、一橋慶喜もまた信ずる正義に生きる魅力的な人であった、ということを自然に見せてくれ、それだけで元気になる。

それはまた「薩摩の思惑も少しは疑ったほうがいいんじゃないのか」という視点も与えてくれて、それはそれで楽しくなる。

幕末から明治ものとして、まだまだお楽しみは続きそうである。