尾張徳川家 尾張藩士の将軍家に対する恨みつらみはすごい

もともとは 家康の 二股かけから?

 

陳胡痒さん
 
126代続いた一族の家業にここまで無自覚な子も珍しい。
つうか、恐らく秋篠宮自体が自分が一族の家業を継ぐ立場になると思っていなくてそういう自覚が薄いため、兄貴夫婦に男の子ができないことが決定的になるまで娘たちにもそういう自覚を促す子育てをしてこなかったのであろうと思われる。
だから娘二人は平民と同じような感じで育てられて、中身は平民なのだと思うね。
 
全然関係ないけど、血筋と一族の自覚ということで去年愛知の得意先の社長と話をした内容を思い出した。
彼は俺と同じで歴史が趣味で、ご先祖が尾張徳川家の家臣なんだよ。で、名古屋城の建て替えで御殿がきれいになりましたねという話の流れで、なんで尾張徳川家は戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸にトンズラした後、新政府軍の愛知通過を許したのです?徳川一門なら、名古屋城に依って薩長と戦うべきだったのでは?と聞いたんですよ。
そうしたら陳さんは
 
尾張徳川家が徳川宗家が紀州徳川家に乗っ取られて以降、徳川宗家にどれだけひどい目にあわされてきたかわかっていないと言われました。
尾張徳川家は徳川一門ではありますが、藩主と家臣一同が将軍家を支えていたのはあの和歌山の田舎者の吉宗が将軍になるまでですよ。それ以降は尾張藩のプロパーの家臣は将軍家なんか敬ってきませんでしたからと驚きの話を聞かされたのです。
 
緊縮財政をした徳川吉宗と、ケインズ主義を実践した徳川宗春の対立と宗春の粛清は有名ですが、その後、尾張徳川家は紀州系が幅を効かせる将軍家から報復として当主に直系や傍系がつくことが許されず、ずっと藩主に養子を押し付けられてきたんですって。そのため尾張藩士の将軍家に対する恨みつらみはすごいものがあたのだそうな。
 
例えばだけど、現代の日銀で総裁に財務官僚がずっと任命され続けたら、日銀のプロパー社員は政府に対してどうおもうだろうかという話。
で、ちょうど維新のときの尾張藩主は尾張徳川家の流れをくむ親戚筋の高須藩から久しぶりに藩主になった慶勝で、言ってみれば4代続いた財務省元次官の日銀総裁から久しぶりにプロパー出身者が総裁を奪還したような話だった。
 
だから彼らにしてみれば、大政奉還がされた以上、将軍家は親戚筋ではあっても自分たちが家臣として仕える対象でもなんでも無かったわけ。むしろ、自分たちを吉宗以降藩主と附家老を送り込んで支配してきた憎むべき対象だったというわけ。
だから、新政府軍が京都を立って江戸を攻撃するために東進してきたとき、領内通過を認めてむしろそれを支援する動きに出たんだね。
同じ徳川一門でもこういうことがある。
 
だから俺は天皇家の中でも兄貴一家と弟一家とで家業や一門の背負う責務に対する自覚の差があっても当たり前だと思うのだよ。
そしてよく旧宮家を皇籍に復帰させろと言う話が、そんなにうまくいくものかと思う理由でもある。現当主と弟、姪の間柄の皇族ですら一族の家業に対する自覚が欠けた者が出るのに、すでに平民としての自由な生活を3代ぐらい重ねた人を皇族にしてうまくいくものなのかと思うのだ。
まあ、徳川吉宗も父親から将軍どころか藩主になる人材としてすら思われていなかったわけで、実態としては平民みたいなものだったけど、皇室芸人の竹田さんが天皇になってああありがたいと思えるのかなあとも感じるのだ。
 
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