南英世の 「くろねこ日記」

大学再編で日本は生き残れるか

 雑誌には色がついている。「文芸春秋」は健全な保守といわれ、古くからエリートが読む。これに対して「世界」はリベラルで知られる。一方、「中央公論」は読売新聞と一体化していて、かつては安倍政権の機関紙ともいわれた。

その「中央公論」の2023年2月号に面白い記事が載っていた。「大学再編で日本は生き残れるか」という特集である。数日前に東京工業大学と東京医科歯科大学が統合され「東京科学大学」となることが話題になったばかりである。しかし、私が気になったのは東京科学大学ではない。西和彦氏が新たに大学を作りコンピュータエンジニアを養成するという記事である。

西和彦氏と言えば1980年代の日本のコンピュータ界をリードした天才である。小学校の時のIQは200を超えていたといわれ、早稲田大学理工学部在学中にアスキーを設立し、ビルゲイツなどとも親交があった。私の年代にとっては懐かしい名前である。

現在の西和彦氏は、妹である西泰子氏が経営される「須磨学園高等学校」の学園長でもある。須磨学園といえば、かつてはいわゆる教育困難校として知られていた。それを西泰子氏が20年間で立て直し、兵庫県のトップクラスの進学校に変身させた。

10年ほど前私が東大谷高校に勤務していたとき、西泰子氏の学校運営手法を学ぼうと会いに行ったことがある。その時印象に残った言葉が二つある。一つは学校を立て直すために能力の低い先生に退職していただく交渉をしたが、この時はさすがに(反発が強く)「殺されるかと思った」と語っておられたことである。もう一つは

「何も日本一の学校にならなくてもいいんです。神戸一でいいんです、と先生方にはお願いしています(笑)」

それって「灘高を抜くということでしょ」と心の中でツッコミを入れたのは言うまでもない。

 

 

その西和彦氏が新しい大学を作るという。神奈川県小田原市に2025年4月開学予定の日本先端工科大学(仮称)である。残念ながら、この計画は破綻してしまった(2023年5月追記)。なぜ西氏が工科大学を創設しようとしたのか、またその目標は何だったのか。『中央公論』2023年2月号は次のように伝えている。

私が大学の教員になるまで
 大学創設は、私が歩んできたこれまでの人生と深い関係があります。私は、早稲田大学理工学部在学中にアスキーを創立(後に社長)。ビル・ゲイツとの親交を深めて米国マイクロソフト本社で副社長とボードメンバーも務めました。

 会社経営が一段落した30歳の頃、私は大学院に行こうと考えました。というのも、政府の審議会委員に選ばれた際に履歴書を出したら「大学中退なら高卒と履歴書を書き直してください」と役所の事務局から連絡があったのです。あのときは顔が真っ赤になるほど恥ずかしかったです。

 しかし、訪れた母校早稲田大学の事務局では、「あなたは大学中退なので大学院の受験資格はありません。8年間在籍して除籍になっているので大学にも戻れません」と言われました。世界的なコンピュータエンジニアリングの仕事をしてきたのになぜだ? 大学から家まで泣きながら帰ったのを憶えています。

 ではどうする。そこで、当時東京工業大学助教授だった、知り合いの広瀬茂男先生を訪ねて「大学に戻りたい」と相談すると、彼は窮状を見かねて学部長に紹介してくれました。学部長は「あなたの経歴なら大学に戻るよりもうちで講師をしたほうがいい。10年教えたら、博士号も取れるでしょう」と。涙がたくさん出ました。嬉しくて。こうして一転、東工大で非常勤講師として「マルチメディア概論」を教えることになったのです。

 さらに、東工大で教え始めてから数年して工学院大学の大学院の研究生になりました。平日は社長業があったので、ゴルフをやめて土日を勉強に充てました。そして教授会で大学卒業の認定をもらい、1999年に「音声や映像を圧縮する技術があれば、インターネットの速度が上がらなくてもインターネット上で通信や放送が可能になる」というテーマで情報学の博士号を取得したのです。10年かかりました。

 博士号は理科系では大学の世界の通行証みたいなものです。博士号がないと教授になれません。

 その後、アスキーの業績不振、CSKへの身売りなどを経て、44歳ですべての仕事を辞めたあと、私が新たな仕事に選んだのは、大学で教えることでした。米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の客員教授を4年務め、帰国して国際連合大学、国際大学、尚美学園大学などで教員を続けました。

 尚美学園大学では、学科長も務めていたのですが、60歳を前に考えました。このまま学科長を続け、学長になるのが自分の望みなのか……。その頃、学内政治に疲れきっていて、「自分はエンジニアとしての最後の可能性を試さないまま70歳になっていいのか。いや試してみたい」と自問自答するようになりました。


エンジニア不足を解消したい
 日本のエンジニア不足が深刻なので、これをなんとかできないかという思いもありました。日本にはコンピュータを使う人はいても、作る人がいない。ソフトを作る人は比較的多いのですが、ハードを作ることができる人はほとんどいません。半導体の世界でも同じような状況です。このままでは世界の最先端からどんどん遅れてしまうのではないか。そんな危機感を持っていました。

 エンジニアが増えない理由は、大学で学生に教えることができる教員が少ないことだと思います。半導体の開発、プログラミングなど、テクノロジーの進化は日進月歩ですが、日本の大学の教授は実務経験に乏しい人も多く、最先端のことを学生に教えられない。

 それで、エンジニアだった自分が本気で学生を教えてみようと考えるようになり、生まれて初めて職務経歴書を書いて東京大学に職を求めました。その結果、2017年から5年間、東大工学系研究科機械工学専攻のIoTメディアラボラトリーのディレクターとして本郷の学部生と大学院生に教えることになりました。

 東大で教えて分かったのは、東大生はみんな本当によくできる良い子ばかりだということ。しかし、その東大工学部に入るためには、理科だけでなく、国語や歴史などの文系科目も勉強しなくてはいけません。国語や歴史ができなくても、理科なら東大工学部の学生並みの学力を持つ人はいるはずではないかと気づきました。

 文系の学問が不用だと言っているのではありません。私が自信を持って言えるのは、受験勉強とは、大学に入るためだけの勉強で、社会に出たら何の役にも立たないということです。ジムに行って筋肉を鍛えるのと同じで、「受験勉強で脳を鍛えてきました!」というだけの世界。あまり意味がないんです。大学に入って行う勉強とは繋がりません。

 そこで理科や数学は得意だけれど国語や歴史は苦手という生徒を全国から集めて教育したら、東大工学部卒業と同等レベルのエンジニアを育てることができ、多少なりとも日本のエンジニア不足の解消に繋がるのではないか、と考えたのです。これが大学を創ろうと思ったいちばんの理由です。単なるパソコンオタクでは困るので、大学入学共通テストである程度の点数を取った生徒を集めようと思います。そして何よりコンピュータが好きで面白いと思っている子を探して、しっかり教育する。そんな大学を目指しています。

 そもそも私の家は、祖母が100年前に神戸で裁縫学校を始め、私で3世代目(現在は、須磨学園中学校・高等学校)。2003年から私は学園長をやっています。もちろん、これから取り組む大学経営と中高一貫校の経営は全く違いますけれど。

(中略)

新大学は五つのコース
 私が創設しようとしている日本先端工科大学(仮称)は、
「表面・超原子先端材料工学コース」
「医工学コース」
「IoTメディアコース」
「移動体工学コース」
「地球・月学コース」
 の5コースで構成します。初年度定員は150人。そして1学年のうち30人程度は留学生を受け入れたいと思っています。

 教員はすでに外国人も含めて35人が内定しています。教員になってほしいのは、企業で30~40年エンジニアをやってきたような人たちです。彼らは優秀ですが、忙しくて博士号を取ることができないままここまで来た。そういう方は、まず非常勤で教えながら、数年かけて大学院に行って博士論文を書き、博士号を取っていただく。そして、博士号が取れたら教授になってもらおうと考えています。実務経験のある教授の授業は、学生にも良い刺激になるはずなので、ぜひ今までの蓄積された経験を教えてあげてほしい。企業は人材の宝庫です。企業で働いている皆さんは、自分が宝だということを認識しないままに退職していく。こんなに悲しいことはありません。

 入試では、専門の面接者が、すべての学生を1時間半かけて面接していきます。専門の面接者を頼むのは、学校の教員による面接だと、生意気な学生を採らない傾向があると思うからです。(笑)

 私は、従順ではない、思い切り生意気な子を見つけたいと考えています。ペーパーテストでは測れない才能を発掘したい。日本のものづくりのスキルを受け継いでいける人材は必ずいるはずです。」

ちなみに、多くの授業は英語で行い、海外留学を希望する優秀な学生にはお金の面も含めてサポートする。大学の4年間は全寮制。学業に支障の出るような外部のアルバイトは禁止。奨学金は貸与・給付ともに大学で準備する。大学院の学費は企業にスポンサーになってもらいスポンサーに払ってもらう。そして卒業後スポンサー企業に就職すれば返済不要にする。

今回かかる費用は35億円。ビル・ゲイツも「サポートを考える」と約束してくれたということである。目標は、この大学から、東大、早慶並みのエンジニアを輩出することだという。


◆西和彦〔にしかずひこ〕
1956年兵庫県生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の77年にアスキー出版を設立。87年アスキー社長に就任。その後アスキーがCSKの関連会社になり、社長を退任。米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授、東京大学大学院工学系研究科機械工学専攻ⅠoTメディアラボラトリーディレクターなどを歴任。博士(情報学)。現在、須磨学園学園長。

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