作家・城山三郎が書いた小説に『官僚たちの夏』という作品がある。主人公のモデルになったのが“ミスター通産省”と呼ばれた佐橋滋なのはつとに知られている。彼は外交的で親分肌の異色の官僚だった。相手が大臣だろうが、財界の大立者だろうが、歯にキヌきせず直言した。
1960年代初め、政治家たちが資本・貿易の自由化に前のめりになる中で、佐橋は自由化は時期尚早だとして抵抗した。「おれのしていることは絶対に国のため、国民のためになる」という強烈な自信を持っていた。
2000年代に入ると潮目が変わった。官僚から主導権を奪い、政治主導ということが言われるようになった。小泉内閣のときである。その後安倍内閣は2014年に内閣府人事局を作り、官僚の人事権を握った。政府に直言する官僚は露骨に出世コースから外された。その結果、官僚は国民ではなく首相の顔色を窺い、忖度行政を行うようになった。森友学園に9億円の土地1億円で売却したのは好例である。
本来国民から選挙で選ばれた国会議員が、選挙で選ばれたわけでもない官僚を自由にコントロールすることは理にかなっている。しかし、それには政治家が国民のために働く「まともな政治家」ということが前提である。
しかるに、今の政治家は「個人の利益」を中心に動いているように見えて仕方がない。例えば、アメリカに逆らえば首相の座から追い落されると考えれば、日本国民の利益よりもアメリカの主張を受け入れるかもしれない。私たちが知る背後にどういう政治力学が働いているのか。
元外務官僚の孫崎亨は、「いまの政治主導のほとんど90%以上は個人または政党の利益で動いている」と書いている。また、官僚が国益を主張してアメリカと交渉していると、日本の政治家によって背後から「矢」が飛んでくるとも書いている(『出る杭の世直し白書』)。
今の日本は「なんでも官邸団」である。官僚は官邸の言うことを聞いていれば出世できる。いまや「官邸官僚」はエリートコースである。その結果、国民のために仕事をしたいと思っている若手官僚がどんどん辞めていく。「アベノマスクを作って配れ」だと? やってられるかあ!
せっかくの官僚の能力を活かしきれないのは政治家の責任である。かつて田中角栄が新人のキャリア官僚を前にしていった。
「頭は君たちのほうがいい。ワシを使って日本をよくしてくれ。責任はワシがとる。」
かつてのように政治家に物言う佐橋のようなタイプの官僚は絶滅危惧種となってしまった。