朝日新聞(2022年11月27日)が、「体育は何を教える教科か」と問うている。鋭い問いかけである。学校で体育の授業があるのが当たり前だと思っていた。しかし、そもそも学校に体育が必修科目として存在するのはなぜなのか。
日本の体育の授業はいまだに明治時代を引きずっているように思えてならない。すなわち、軍国主義よろしく「富国強兵」の一翼を担う教育である。運動会の隊列行進における「ぜんたーい、止まれ!」の号令が「全隊、止まれ!」の意味であることを知る人は少ない。
個人的にはスポーツは大好きなほうだと思う。しかし、体育が楽しかったという思い出は一つもない。体育の授業から得られたものは何かと問われたら、答えに窮する。体育の主目的は「協調精神を養うこと」と「根性を鍛えること」にあると今も思っている。
人間は本質的に「善くなろう」と思っている存在である。できないことができるようになる、わからないことがわかるようになる。本来それは楽しいことのはずである。それが楽しく感じられないとしたら、それは、教育システムの欠陥、または教える側の力量不足ではないか。
今の学校は何でも競争、競争、競争である。競争して他人と比較している限り、人は優越感にしか楽しみを見出すことができないのではないか。
ほんとうに体育って何を学ぶ教科なのだろう? 一人一人を大切にするというのなら、せめて、その人の個性に合わせてテニスとかサッカーとかゴルフとかいうように、生徒が選択できるようにできないものだろうか。この問題は実は体育に限らないのかもしれない。