南英世の 「くろねこ日記」

引き返す勇気

 

昔、山に登っていて道に迷ったことがある。途中で戻ろうかと何回も思ったが、同じ道を引き返すのが嫌で、ずるずるとそのまま突き進んでしまった。幸い、数百メートル程度の低い山だったので、そのうち民家のある所に下山できた。もちろん、自分がどこにたどり着いたのかはわからなかった。この時思い知った。道に迷ったら躊躇なく戻るべきであることを。

最近、教育の世界も同じではないかと思うことがしばしばある。学校とは本来、人間が持っているそれぞれの個性を引き出し、社会を生き抜くための知識を授ける場所のはずである。ところが、学校はいまや、人間に序列をつけるための格付け機関に成り下がってしまった。

「人間は優越感以外の何物をも楽しむことはできない」といったのは17世紀のイギリスの哲学者ホッブズである。現代の学校は生徒をひたすら競争させて優越感という最上の喜びを勝ち取るために努力せよと教えている。そのためかテストの点数を伸ばしてくれる先生がいい先生で、私のように学問の楽しさを伝えることを第一の目的としている教師はいささか居心地が悪い。

この20年間、新自由主義の嵐が競争を煽っている。しかし、人間は他人と比較している限り幸せにはなれない。幸福の最大の敵は「他人との比較」である。それぞれの個性を尊重し認め合うことこそが本来の教育ではないのか。長距離が得意な子もいれば短距離が得意な子もいる。運動は苦手だが音楽が得意な子や美術が得意な子もいる。

今の学校は英・数・国を中心に平均点の高い生徒の成績が上位にランクされる。平均点が高いことがそんなに価値があるのか。むしろ、全部赤点でも、1科目120点取れる才能がある方が世の中に出て役に立つのではないか。

少なくとも社会人になればあれもこれもできる必要はない。たとえ医師免許、法曹資格、公認会計士の資格を全部取ったとしても、生業にできるのは一つである。世の中は分業で成り立っている。1点豪華主義で十分である。

もうすぐ2学期末定期考査が始まる。しかし、テストの成績で序列をつけることに教師自身が何の違和感も持っていない。行き過ぎた競争原理の導入にそろそろ揺り戻しがあってもいいと思うのだが、一度来た道を引き返すのは「自己否定」そのものである。教育学原理の初歩テキストも読んだことのない政治家にそうした勇気があるとは思えない。

今の日本の教育は「できないことをできるようにする」ことが主眼になっている。それはそれで大切なことには違いないが、その一方で、「できることを伸ばす」教育がもっと強調されてもいいのではないかという気がする。いかがだろうか。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日常の風景」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事