日本における同調圧力はどこから生まれるのか。著者は「社会」と「世間」を区別し、同調圧力は「世間」から生まれるとする。
「世間」は、会社、学校、近所など自分に関係ある人々で形成される。ここでは「法のルール」ではなく「世間のルール」が働くという。例えば、贈り物の文化や長幼の序、集団主義が重視され、世間のルールに従わないものは仲間外れにされる。そのためみんなと同じような行動をする「同調圧力」が生まれる。
一方、「社会」という言葉はSocietyの訳語として明治時代に入ってきた。社会は自分とは関係ない人々で構成され、法のルールと契約関係で成立し、個人主義と個人の平等が重視される。
英語では2人称は ”you" しかない。しかし、日本語では長幼の序、親疎関係に応じてさまざまに使い分けられる。学校のクラブ活動を見ていても、1学年違えばそこには徹底した上下関係が存在する。大学の体育会系クラブでは、1年奴隷、2年平民、3年貴族、4年神様と言われる。これに対して欧米では1学年違っても「人間対人間」の平等な関係とされる。
同調圧力が最も顕著なのは会議の席である。ある人の意見に反対意見を述べるのは日本ではすごく勇気がいる。なぜならば、一つのテーマについて議論しているにもかかわらず、反対意見を述べると「俺に喧嘩を売ってんのか」と受け取られ、全面戦争になるからである。だから議論が成り立たない。そこで会議の前の根回しで十分に意見を調整し、会議では「全会一致」で採決される。
授業をしていていつも思う。質問を投げかけても誰も手を上げない。小学生の時はあんなに「はーい」「はーい」と手を挙げていたのに、中学生くらいになるともう手を挙げなくなる。高校で手を挙げるのはもはや「絶滅危惧種」(?)に近い。周りを見てみんな挙げていないから自分も挙げない。これも同調圧力と言えるかもしれない。とにかく目立つことを嫌がるのが「世間」というものの特徴であるらしい。
71歳で三国丘高校に復職した時、ハーバード大学のサンデル教授のような授業を目指した。しかし、「個性的であれ」と教えられていない日本では、望むべくもなかった。残念と言えば残念だが、私一人の力でどうにかなるという問題でもない。
半年にわたる全25回の授業も来週いっぱいで終了する。来週も同僚の先生、市会議員、インターンの学生など多くの見学者が来てくれる。毎回120%のエネルギーで授業をしてきたが、もうあと少し。悔いのないように頑張ろうっと。