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南英世の 「くろねこ日記」

学問で一番大切なこと

知っていることと本当に理解していることとは全く異なる。生徒の論文指導をしていると改めてそのことを強く感じる。
論文を書かせると深いところまで理解しているか、それとも表面だけをなぞって覚えただけなのかがすぐわかる。メリハリの利かせ方が全然違うのだ。「覚えすぎ」の弊害かもしれない。

例えば人権保障の歴史について1200程度でまとめよという課題を出すと、市民革命がなぜ起きたのか、19世紀に労働運動がなぜ激しくなったのかという当時の社会状況をきちんと受け止めた答案になっていない。他人の痛みを自分のこととして受け止める感性が全く育っていないのだ。

「貧困」と聞いて、人はそれが何を意味するかは一応理解する。しかし、本当の貧乏は個人の話を聞いたり、自分が体験したりしないと分かるものではない。「失業」という言葉もしかりである。失業率が3%、200万人と聞いても単なる数字として記憶するだけである。ましてや戦争で何百万人が死んだと聞いても「ふーん」の一言で片づけられてしまう。

学問で一番大切なことは「他人の痛みを自分のこととして受け止める想像力」ではないか。そうした想像力を働かせる力が、今の高校生には乏しい。共通試験で9割以上の高得点を取っている生徒も例外ではない。いや、共通試験で9割もとれるような勉強をしているからこそ、想像力が身につかないのかもしれない。

また、カリキュラムの問題もある。日本史は小中高と3回学ぶのに、世界史は高校で2単位だけというところも少なくない。2単位では時間数が足りないから、古代・中世までやってそれでオシマイにする。その結果、世界史を選択科目として選ばない限り、近現代を全く学ばないまま大人になっていく。そもそも近現代をやらないで大学の法学部やら経済学部へ行ったって困るだろうにねー。

今から40年以上も前、教員免許を取るときにたまたま読んだ渡辺洋三(東大法学部教授、当時)の言葉が、強烈に印象に残っている。

「私が大学で一年生の教養課程の法学の講義を受け持ってみての感じでは、極端に言うと、高校以下の社会科教育は絶望的な気がします。高校までの社会科教育の中で、法律とか政治等の社会現象をどういうふうに見てきたのだろうかといえば、まるっきり知らないと言ってもいいのではないかと思います。」(『教育学全集、第八巻』小学館)

おう、よう言うてくれた。「高校の授業がどういうものか。いっちょ、やったやろやないか」。

教員になって以来、私の授業は渡辺洋三との戦いであった。物事の本質を見る目をいかに養うか。細かな知識などどうでもよい。他人の痛みをどこまで自分のこととして受け止めることができるか。それが学問の出発点である。だから、生徒には「抽象語で分かったつもりになるな」と口癖のように言い続けてきた。

しかし、最近は新自由主義の影響で、学校も競争、競争のオンパレードである。共通テストの点数で学校間の比較をし、0.1点刻みで大阪トップ10校の第何位であったかを争わせる。しかも、その結果が人事評価の対象になる。それでは生徒に点数を取らせること自体が目標となってしまい、本来の教育目標からはずれてしまう。1本の物差しだけで比較する。こんな有害なことはない。こんなことになるくらいなら「10校会議」なんて作るのではなかった(注)。

(注)「10校会議」とは、大阪の進学校のトップ10校の進路指導部長が情報交換をする会議である。実はこの会議を1997年に最初に立ち上げたのは何を隠そう私である。当時は進学校同士が集まることは「平等教育」に反するとしてタブーだった。しかし、各学区ごとのブロック会では就職の情報交換はなされても、進学の情報交換はほとんどなされなかった。そこで、勇気を出して大阪のトップ校だけが集まり情報交換しませんかと呼びかけたのである。それが「10校会議」へと発展し現在に至っている。当初は、進学校の悩みを話し合う場であったが、いつの間にやら変質してしまった。残念なことである。
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