南英世の 「くろねこ日記」

定期考査

 先日「公共」の2学期末定期考査があった。45点は共通テストタイプの選択式、50点はスミス、マルクス、ケインズについて説明する小論文、残り5点は授業で印象に残った内容とそのコメントを書かせた。

この「印象に残った内容」が読んでいて面白かった。授業をやっているときは「暖簾に腕押し」みたいな手ごたえだったのだが、答案を読んでみるとみんなしっかり聞いてくれていることがわかり感動した。特に、受験に関係ない話(実はこれこそが本当に大切な人間教育だと力を込めて話した部分)が心に響いたという感想がたくさんありうれしかった。さすが三国の生徒である。

最近は、学校の定期考査でもマーク式で解答させてコンピュータ採点する先生が増えている。私は相変わらずアナログ派だが、マル付けをしていると一人ひとりの特徴がよくわかる。しかし、コンピュータではこんな感触は得られない。採点は生徒とのコミュケーションの場でもある。

採点されているのはだれか?
 定期テストって、生徒が採点されているようで実は採点されているのは先生自身であると最近よく思う。なぜ、全員に分からせることができなかったのだろうと自省の念にかられる。もっとも今の学校は生徒を成績で序列化することが主目的みたいになっているから、全員が高得点だと具合悪いんだろうけれど・・・

それで思い出した。昔「保健の先生を困らせてやろう」とクラスで相談して、みんなで一生懸命「保健」の勉強をして平均点が90点を超えたという話を聞いたことがある。案の定、先生は困ったらしい。それを見た生徒たちは「ニヤリ」。

大学入試のような選抜試験は序列をつけることが目的である。しかし、学校教育の現場でなぜ5が何パーセント、4が何パーセント、3が何パーセントなどという基準を設ける必要があるのだろう。全員に5を付けたっていいではないかと思うのだが。

もっと考えれば、そもそも学校の成績が何だっていうのか。教育の効果は忘れた後に現れるというではないか。テストで満点を取る生徒もいれば、testで赤点をとってもそのあと何年かして授業のメッセージを思い出してポツポツ歩き始める生徒もいる。むしろ些末な知識より授業から受け取った骨太のメッセージこそその人の人生に役立つのではないか。

そう考えると、全員に高得点を取らせることができなかったとしても、へこむ必要などみじんもないと思えてきた。

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