しかし、今回の旅行で、ポーランドの悲劇はそれだけではなかったことを知った。第二次世界大戦後のポーランドを共産主義下に置くために、ソ連は2つの裏切り行為を行なっている。
一つはカティンの森事件(1943年発覚)である。第二次大戦中、独ソ不可侵条約が結ばれ、ポーランドはドイツとソ連の挟み撃ちにあう。その結果、ポーランド将校が多数ソ連側の捕虜になった。その後、対ドイツ政策で利害の一致したポーランドとソ連は協定を結び、捕虜を解放することになった。しかし、実際は解放するどころか、ソ連は捕虜たちを虐殺してしまった。理由は、解放したポーランド将校たちがポーランドを共産主義化するうえで障害になると考えたからである。犠牲者は少なくとも数千人規模(4400人?)だといわれる。そのあたりの事情は、映画「戦場のピアニスト」に描かれているらしい。1990年になって初めて、ソ連のゴルバチョフ大統領は公式にこの事実を認めた。600万人を粛清したとされるスターリンにとって、この程度の銃殺は小さな数字だったのかもしれない。
一方、ソ連は1944年、イギリス亡命政府が支持するワルシャワの部隊に対し、ドイツに抵抗して蜂起することを呼び掛け、ドイツと戦闘を開始させた(ワルシャワ蜂起 )。しかし、ソ連軍はヴィスワ川の対岸におりながら全くこの戦いには参戦せず、ポーランド軍を見殺しにした。その結果、ポーランドに20万人近くの犠牲者が出てしまった。こうしてソ連軍はドイツにワルシャワの部隊を殲滅させたあと、ドイツ軍を撃破した(1945年)。
要するに、カティンの森事件も、ワルシャワ蜂起もソ連が戦後、ポーランドに共産主義を植え付けるのに邪魔な存在を消すために行なったのである。そうした歴史を、ポーランドの人は決して忘れてはいない。今回の旅行で、国際社会は「シマ」をめぐるやくざの世界であることを改めて知った。
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