不食と餓死
餓死している人が、地球の裏側には大勢います。
今この瞬間にも、餓死は続いています。
実践思想家の山田さんもその点に触れています。
「人は飢餓で死ぬのではなく、飢餓の恐怖で死ぬのだと。
人は飢餓で死ぬのではなく、飢餓の恐怖意識で死ぬのだと。
あるいはこうだ。人は飢餓で死ぬと絶対的に思っているから、
飢餓で死ぬのだと。
詭弁だとおもわれるだろうか?
僕はまじめだ。
これまで誰も、言うことも、考えることもなかった。
だから飢餓に直面した人は、飢餓の行き先は当然死であると思い込む。
思い込んで恐怖におびえる。
実際に身体が機能しなくなるより先に、心が死に達してしまう。
心が死を受け入れたから、死は肉体を支配した、と。
誰もが飢餓になれば、当然死ぬと思っている。
誰もが思っているということは、真理や事実以上に強く人間に作用する。
人間が作りだした人類意識、社会意識から逃れられる人間は極少だ。」
「不食 人は食べなくても生きられる・・・山田鷹夫」より引用
人が信じている信念とは、様々です。
食に関しても同じでしょう。
山田さんがおっしゃるように、飢餓の行き先が死だと思い込んでいたら、
生きる可能性は、即座に否定されます。
自分の中で信じていることが優先される。
もう死しかないと思い込んだ状態で生き続けることは、
それこそ、難しいことかもしれません。
人間が作り出した人類意識や
社会意識から逃れられる人間は
極少数しかいない。
これが一番重要な部分だと思います。
不食の意識は、こうした人類意識や社会意識から解放され
ラクに生きられる術になる気がするのです。
解放されたら、ストレスも減ることでしょう。
そうなれば、ストレス発散のための食事は不要となります。
本当に食べたいという意識でたべることができる。
添加物や農薬、体に良くないものに敏感になる必要もない。
なぜなら、体がそれだけ強靭になるからです。
多少のものが入ってきても、きちんと排泄できる。
そして断食のように、無理くりやるわけじゃないのです。
徐々に食べない快適さを感じながら、移行していくのです。
誰に命令されることでもなく、自由意思で行う。
折にふれて、不食実験のレポートを伝えていければなと思います。
不食の状態よりも、感じ方の違い、意識の変化について
お伝えできたらと考えています。
私の仲間たちは、また何が始まったのか?と
驚くことでしょうが、生きた見本として仲間にも伝えていけることが
あると思っています。
さらなる意識の解放にむけて、楽しみながらやっていきます。
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