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伊達藩の幕府時代末期

2017年12月21日 11時46分11秒 | 日記
伊達家の出身
 
 伊達藩の序列は、
門・家・準1家・族・永代着座(一番座、二番座)・
永代太刀上( 一番座、二番座)・代々召出(一番座、二番座)、
大番組までが兵士です。
その次が 下士である組士です。

養賢堂は、8歳より入学 はじめ素売・算数おおむね
10年間で退学
11月4日から15日まで各科目試験し賞与を与えてました。

 伊達家の出身する方法は、
「藩主の子供遊び相手として児小姓になる」ことです。
また卒業成績により藩の執政、参政の担当になるるとか
勘定所、郡村方の官吏に勤めることでした。
それ以上の出身は、江戸番または武頭になることが 
出身でした。

 喜平は、8歳に児小姓になり「御年男」を命ざれ
年俸金2両3人口を受けていました。
喜平の知行地は、刈田郡で父の屋敷もありました。
子供の町の別邸から養賢堂に通学してました。
喜平が 養賢堂に入学した時代は、
 1833年天保4年大飢饉でした。 
 1834年天保5年平年昨
 1836年天保7年やませ、大暴風雨91.5万石損欠
アメリカのモリソン号が 浦賀に接近のとき砲撃されました
 1838年天保9年災害62.6万石損欠
この天保の大凶作のために伊達藩は、
他の藩から米を金額30万両分以上も買いてました。

「1841年天保12年斉邦公25歳で
脚気を患って悪化し死亡しました。」
次の藩主は、慶邦公17歳で交代しました。
喜平は、1842年元服の祝いを城に置い、
大小姓として採用されていました。
 
慶邦は、水戸藩主の娘と再婚ですが 子供の誕生に無く
一門の子供に養子にできる年齢に無くて
四国伊達家の子供を 養子して江戸邸での生活でした。

 戊辰戦争中に 四国伊達藩の陸奥正宗が 
政府代表として仙台に入り 伊達の藩主の隠居交代を命じ
新藩主を陸奥正宗の子供に決めました。
 伊達が、戊辰戦争に弱腰の理由の一つです。


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