これが、何十年と続き家系の子供、仕事の事、病気と・・・さすがに毎日祈られては神も応えざるお得ない。
これは、長く関わった他人にも言える。
こちら側の思い通りにしようとして祈ってる訳でもないから、自然祈る対象に良い形に現れるか、神の恩恵を受ける段階や器で無い相手には祈った私の意を汲んで対象のひとつ先の存在に神は守りや恩寵を与えて下さる事もある。
カトリックの祈りとは、コチラからエーテルコードを繋ぎ、全てとは言わないが時にはエネルギーを差し出す覚悟も必要で、特に修道者的な立場であれば、エネルギーとして行動も伴う様に促されるのもしばしば。
上の様な祈りを続けても、長年恩恵に気付きを持たないのは当たり前で、恩恵をラッキーと言わんばかりに横柄になる者は山程いる。様子を見て、願った祈りが相手に無意味である場合、その相手は後にただのエネルギーバンパイヤになる。
長くそんな生活をしていた頃、ほとほと疲れはて、霊的に「もっと、もっとください」と要求がエスカレートし、ほぼ私の承諾なしに勝手にあれをやれ、これをやれが始まる。
この現象がでた時、無垢なクリスチャンは更に奉仕するが、私は割りに冷たい。
十分祈った。
神よ、私は〇〇〇〇の前で足の塵をはらいます。
この言葉を聞いたらクリスチャンに
「縁をきられた」と理解したほうが良い。
切る側にも覚悟があって、重みとしては絶縁に近い。
特に修道者的な生き方をした人がこれを放つ時は、放つ側にも覚悟があり、神からもその対象者と縁を切ればどうなるか・・をガッチリ示唆される。
「祈ってくれとは頼んでない〜」が相手側の言い分だとは思うが・・
何十年と祈り続けてきた自分としては、取り去られた神の恩恵をこの先も理解も気付きもしない儘に彼らは人生を終わるのかと残念に思う。
随分前に亡くなった父は、死後霊界のキリストの宗教エリアで一通りの説明と学びがあって、亡くなって数カ月後その様子が聞こえきたが、意味不明な返答を指導者にしていた。
「だめだ、この人はキリストを理解できない」(笑)と思ったし、その後多分父はキリストのエリアには存在出来ないだろうと私は思っていた。
しかし私のしている事、目指している事の情報は受けていて、喜んでくれているらしい。
数ヶ月単位程の祈りでは、上の様な事は起こらないし、今後の私の祈りは個人に長期に向ける事はあまりないと思う。(家族や長い付き合いのクリスチャン以外の友人がないから・・いや、友人がいない。)
ただ、今回は何十年単位で祈り続けても、本人の為にならず、まして我が身を嫌な意味で下僕に利用する者とは、クリスチャンでも縁を終わりにする事、そして・・・どんな事をしてるかをお知らせ。
今日、一組の夫婦との縁を終了したので記録として記した。
縁の終了はこれで2度目。
「足の塵を払います。」
何とも冷たい言葉ではあるけれど、「スッ」と体が軽くなり・・・エーテルコードという表現より、土台から繋がれた足の鎖が外れた感。
考えに考え、警告し、争った末に最終的にたどり着いだ答え。
願わくば、その対象者の回りに影響が無い事を願う。
私はキリスト教伝導について↑上の様に話している訳ではない。(聖書の言葉は伝導についての語りの部分)
家族、会社等々、人間関係に纏る事で、相手に親切を尽し、長く付き合っても愛が循環せず自分が疲弊しエネルギーを奪われるばかりならば、↓の様にする・・・事も必要と言いたい。
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どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃(ほこり)を払い落しなさい。
ルカによる福音書 9章4~5節
今は自称クリスチャンになってしまった私だけれど😢