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日々のスピリチュアル日記です。

反省中

定期にお気に入りの方のタロット動画を幾つか見ているのだけれど、たまたま拾った動画で
「インナーチャイルドの癒し」
「父親との関係性の癒し」
をかなり強くフォーカスされ、今更ながら何かあるのか?と気にはなったが放置していた。

20代の頃からクリスチャンとして家族の為に祈るのは日課だったし、父親が無くなった際に「祈りとしては十分」と僧侶から話されたし、私としては父の魂の行き先として不本意ながらも、神には受け入れて頂けたとして完結していた。

時節の彼岸や盆には無知ながらも仏壇に其れなりのお供えもしたし線香もあげた。


昨日、久しぶりにお気に入りの若い頃から好きなア―ティストの音楽を聞いていた夜、曲に連なる学生の頃の昔の記憶が甦り
「あの頃は、コンサートやライブで音楽に明け暮れ、生活の心配も無く未来ばかり描けていたなぁ」
という思いが沸き上がってきた。

「えっ👀⁉️・・誰のお陰・・」
「あれ・・・父親のお陰」
「あれ・・・感謝した事、あった?」


そしてここからが、
公開懺悔①。
なんと・・・私、人様に信仰を勧めながら・・父親に生前も死後も感謝を伝えた事が皆無。

公開懺悔②
仏壇に向かうのは、位牌の後ろに鎮座なさる仏様に般若心経を唱える為がメインで、なんとその際には位牌をずらして避けていた。花を備えるのも釈迦如来様の為。

公開懺悔③
彼岸、お盆の際にお供えや線香を上げる事はしても、分家で祖先は父一人と考え、話しかける事もほぼ無く「感謝」など伝えた事がなかった。

身内に対しては、生前に十分祈っていたから万事OK・・・はまかり通らなかった。

多分、タロットで耳にし、気になっていた「父親との関係性の癒し」はこれだと思った。癒されるのが必要なのは父親だったのかも知れない。

現象としても思い当たる事があり、自分の物なのに名義や他の理由で2重にブロックがかかり、どうにも父から受け取れない物があった。その理由は「語りかけない」「感謝」しない私自身に問題があったのかも知れない。

この受け取れない件については、手放しして放棄しようとも考えていたが、自分の人生を振り返り

・若い頃に都内に出る自由を与え生活させてくれた事。
・親の生活の支えのお陰で、カトリックを学ぶ機会と自由を与えくれた事。
・失業しても、生活できる家を与えてくれている事。

考えるとまだまだあるが、これからは神にでは無く位牌に向けて伝えなかった「ありがとう」を語りかけてみようと思う。

修行場でしかなかった私の家。
少し前の過去世のblogに記した私が抱いていた思い
「人は信頼に値しない者」
この事は、時によっては今世家族にも向けられていたし、多分今回の事もこの思いの闇の結果で、私は親に情的な深い交流を生前も死後も抱いてはいなかったのだと思う。

両親の病後、老後のケアもクリスチャンとしての学んだ行為を実行しただけだったのかも知れない。

大いに反省した。

私の父に対する姿は、多分、神々様も苦々しく思っていた事と思う。

気が付けて良かった。

人様に「祈り」とか言う前に、気付かないなんて恥ずかしい。

割りと・・・自分を怖い人間だと思った記録。


追記:
blogを記して一休みしていると・・・
ハ―トチャクラが暖かくなり、父の49日以来聞いていなかった声が聞こえた。

「そうか、そうか」
「あいつが俺に感謝したか」
「そうか、そうか」
うっすら喜ぶ父の照れくさそうな笑顔がビジョンで見えた。

潜在意識の浄化の為に「感謝」「ありがとう」を繰り返し唱えて叶わない解決ではなかった様にも思えるが、誰かに向かう「感謝」や「ありがとう」は、その関係性の修復に即効性があるものだと、それこそ学びに感謝した。

分家なので、祖先は父1人になるのか?仏教に詳しくない私ながら・・これからは大事にしようと思う。
blogに記した事も供養になったかな?


日々のスピリチュアル日記です。

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