聴覚障害を超え動くタイミングなど、並んだ後ろの人が前の人に息を吹き掛ける事で合図するのだと言う。もう何回も代替わりし演出も変わっているのかも知れないが、私はこのセンターの人の世代が好きで深く記憶していた。
「この人々のお陰で千手観音が再注目された。」という声が聞こえた。
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「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。
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と言う事だが、私が指摘されたのは四苦八苦している人に対して、千の接し方があると言う事の示唆。
何回も、何回も伝えても伝わらない事に対する答えだった。
「はぁ〜千回・・・」と思っていると、私にとってもう不可能と思う関わりの奥に、私が隠し持った大変などす黒い感情がエネルギーヒ―リングによって浮かび上がってきてしまった。
強烈な怒りと不満が吹き出し、涙が溢れてきた。
この感情は育てられる中で母から受けた兄弟格差の扱い、同居した時からお金を入れても家政婦扱され続けた20年以上の不満、痴呆になった母の世話を丸投げされた他の兄弟への怒りだった。
自分で受け入れた事だからしかたが無かったし、一度別居したのに高齢を理由に請われて再同居した私が悪い。許したつもりでいたがまだ残っていた。
正直、痴呆の老母を兄弟に引き渡す前の私は、精神安定剤を飲まなければ眠れない程疲弊していたし、壊れかけてビジネスホテルに逃げこんだ時もあった。
そして老人ホ―ムに入居した際には、義姉に「顔も見たく無い」と母に関する話を遮り言い放っていた。
外面からどう見られようと、私の母親は子供の頃から金で私を支配し、親の立場と働いている事で家事を押し付け、祖母としての母の役割さえ私に転嫁し利用し、痴呆かかっては近所中に私の悪口を言いふらす人だった。それを何度もいやし、許し、理解し手放していたが、「不完全」と言わんばかりに人間関係に浮かび上がって出てきてしまった。
要するに、関わる相手との関係が余りにも相手の都合ばかりに傾きすぎて疲れ切ってしまい、私は母親にされたように都合良く利用される事を恐れていた。
だから、関わった相手との間に出来た傷を癒す際に漏れた言葉は
「母にされた様に支配利用されたくない。もう、あんな思いはしたくない。」
表面的な意識は《学び》《愛》とかを掲げるけれど、関わる相手に振り回されると、内なる感情は都合良く利用された母への《怒り》や《憎しみ》《抑え込まれたトラウマ》を呼び起こし、また同じ様に利用される恐怖で嫌悪してしまう。「千の接し方がある」に着手する以前の問題だった。
関わりを拒否した相手は、意識無く私の奥底のどす黒い塊を焙り出してくれたのかも知れない。
神からの慰めが来て「棘の道を長く歩き続けた貴方に、神々から贈り物・・・」と語りかけられ内容は記せないが、これからの幸いを頂けるお言葉をもらった。
30年以上前の若い頃、教会へ歩いていく道すがら
「宗教をやっているのに、押し付けて来ないよね」
と友人に言われた事を思い出し
「こんな苦しい思いをするのを、大切な友達に勧められない。何でこんなに苦しむんだ」
と思いながら歩いているとビジョンが見え、
目前にキリストが待っていて私の頭に棘の冠を被せようとしていた。私は咄嗟の事に驚きその冠を払いのけた。
多分それ以前に、十字架の足元で子供の様に「十字架の意味が解りません。教えて下さい。」と祈ってしまった事と繋がっていたのかも知れない。
棘の冠を頂く意味はカトリックの方にしか解らないとは思うが、この歳になって何と恐れ多い無知剥き出しの祈りを十字架の元でしてしまった事か・・・・。
そして、修行をしたつもりが結局は怒りや憎しみを溜め込んでいた今回を知るに至り、所詮その程度の人間でしかない我が身にため息が出る。
まぁ、内観お掃除がまた一つ終了。
千手観音様に感謝。
焙り出してくれた方に感謝。
おまけ